Posted by admin on 2016年12月5日
もう大人ですし保護者と逸れて泣いてしまう様な迷子になる事はなくなりましたが、頭の中が迷子状態になる事はよくあります。特に書店や図書館に行った際、目的の本が見当たらず右往左往してもやはり無いので、しょうがないから何か別の面白そうな本を見つけてみようと試行錯誤するのですがなかなかピンとくるものに巡り合えず、ずらっと並ぶ本の背の無言の様相に途方に暮れてしまう迷子です。本だけでなく、洋服やご飯の材料を買いに行った時もそんな現象に陥りがちですが、本にまつわる売り場は整然としていて処によっては冷たく厳正としてる事もあり一層迷子感が強調されると思うのです。
あ、迷子になってるなと思った時には手遅れになっている事が多く、エッセイ集目当てで来たはずが何故か地下の専門書コーナーの奥にいて、時間もあっという間に過ぎていたりして。何を探していたのかも分からないし、どうしてこのコーナーで目を凝らしていたのか分からない、別の世界にトリップしてしまった様な心地に気づかされます。大人になってから迷子になるなんて貴重な体験だなとは思うのですが、そこから出て外気に触れた時にその新鮮さに気づかされ、今まで私はどれほど鬱蒼とした思考の迷路にいたのだろうと呆然としてしまいます。子供の迷子は保護者と会えれば無事解決しますが、では大人の迷子にゴールはあるのでしょうか。
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大人が迷子になりやすい図書館や書店 はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2016年11月20日
こないだ散歩をしていると、ランドセルを背負った小学生の男の子が本を読みながら、反対方向から歩いてきました。ランドセルの横に下げた揺れる給食袋が太ももあたりに当たっているのもお構いなしに、真剣な表情で本に目を落としながら歩いています。おそらく三年生くらいでしょうか、小柄な体つきに細い脚、お節介かもしれませんが転んでしまわないか心配になってしまいます。その子供は気配を感じたのか、本から少し目線を上げて私の姿を確認すると、またすぐに目線を本に戻し黙々と本を読み始めました。何をそんなに必死になって読んでいるのだろうと気になるところですが、あまりじろじろ見ては失礼かと思うと、なんだかこちらまで歩みがぎこちなくなってきました。私と男の子の距離があと五メートル程になった時、男の子が躓き、絵に描いたように前傾して転んでしまいました。ツンと澄ましていた男の子顔が驚きと恐怖で歪んだのを確認する前にはもう、体が自然と動き、駆け寄って「大丈夫ですか?」と声をかけている自分がいました。寸分の沈黙の後、男の子はアスファルトに倒れこませた上半身を徐に起こしながら「いてて」と笑いました。ケガはなく一安心ですが、男の子の恥ずかしさ隠しの笑顔が切なくてたまりませんでした。
放り投げてしまった本を拾った時に、その本がおそらく外国のヤングアダルトの冒険ものの和訳本、さらに私が今行こうとしている図書館のシールが貼ってある事に気が付きました。好きな本は?とかそれはそんなに面白いの?なんて聞きたい事が込み上げてきますが、ただ一つ、「本が好きなんですか?」と問うと笑顔で「はい!」と答えてくれました。「じゃあ、気を付けて」と手ふりその場から去ろうとすると男の子は「ありがとうございました!こんどからお家に帰ったらよみます」と言って、ランドセルを開けて本を中に入れました。ランドセルの金具が擦れる音、久しぶりに聞いたななんて、ふいに耳に入ってきた懐かしい音が心地よかったです。それにしても咄嗟に敬語がでてしまった自分が面白可笑しいです。
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読書に夢中な男の子が転んでしまって はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2016年11月5日
モバイル端末が普及している昨今において、電源確保は現代人にとって大きな課題です。カフェでは電源コンセント使用可のカウンターはどこも満席で、コンセントに繋がれて黙々と画面に向かっている人の背が並んでいる光景はどこか滑稽にも思えます。かく言う私も、数多の端末を使いこなしている超絶デジタル人間ではなりませんが、それでもスマートフォンの残電池量が少なくなると心許なくなったりするものです。私にとってスマートフォンの電源が落ちてしまって不安な原因は、仕事や近しい人からの急な連絡に応答できなくなってしまう事であります。しかし滅多な事がない限り来ないだろうと、せっかく電源が落ちてしまったのだからこのチャンスを活き活き過ごそうと余裕しゃくしゃくで構えることにしています。幸い私が大好きな読書というものは電源を必要としませんから、電池残量を気にせず楽しむ事ができます。スマートフォンが元気に通知音や通知画面を表していると気が散ってしまいますが、もう何も介入してこないと思うと意識の静寂の中で悠々と読書に耽る事ができますからむしろご褒美です。
なんて思っていた矢先、ある日突然充電が終わり電源が落ちてしまいました。もちろん私はその日、上記の様に一日気楽に構えておりました。しかし家に帰ってスマートフォンを充電してみると友人から度重なる連絡来ていた事を知り驚いきました。メッセージを読むと、なんと、私が敬愛する作家が駅前の書店で講演会を行っていたそうで、それを知った友人が気を利かせて席をとったと連絡をくれた様でした。あぁ無念、やはり充電の準備はしっかりとしておくべきでした。でもいつもより読書に集中できたから良かったのかもしれません。
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電源迷子の世で強く生きようと思ったけど はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2016年10月21日
新しく改装された図書館に行った時の話です。館内をうろついていると、興味はあったものの読み忘れている本の事を思い出しました。その本は食通の作家さんの食にまつわるエッセイです。作家さんの書籍が並ぶコーナーに行ってみましたがその本だけありません、エッセイコーナーも探してみましたがこちらもない。最近発売された本なので、最新刊コーナーにも行ってみましたがやはりない、人気の作家さんの話題のエッセイなのですべて貸し出し中なのでは或いは取り扱いが無いのかもしれないという危惧が芽生えます。蔵書検索ツールで調べてみると在庫がある様でほっと一息、それでは何処に陳列されているのでしょうか?とても気になります。ツールの画面を印刷し指定の陳列棚を探します、だんだん番号が近づいてきたのですが周りは写真付きのレシピ本をはじめとした料理にまつわる本ばかりで、私が目論んでいたコーナーとは毛色がだいぶ違います。遂にお目当ての本を見つけました、陳列されていたのはなんと料理本コーナーの「料理文学」というコーナー。料理文学とは初耳ですし、何より文芸コーナーではなく料理本コーナーが正解だったと思い付きませんでした。
図書館や書店の本の並びはいつも新しい発見を与えてくれるなとしみじみ思います。
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検討もつかなかったカテゴライズと陳列 はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2016年10月8日
ファッション雑誌で“眼鏡がつくる世界”と銘打たれ特集を読んだのですが、一風変わった魅せ方をしていて面白いなと思いました。モデルさんが主役であるクラシカルでオシャレな眼鏡をかけ、テラスやベッドの上で本を読んでいます。アンニュイな雰囲気のロートーンの写真は眼鏡と本を強調して撮られていて、隅には小説の一説が書き出されています。誰もが知っている文豪の有名な小説から引用されているのですが、書き出される一説は何の変哲もない情景描写、有名な小説でも誰も覚えていない様な文章をあえて選出しているのでしょうか。この眼鏡をかけなければ見えなかった、見逃していた世界が浮かび上がりるメタファーになっているのでしょうか。この特集をカメラ好きの友人に紹介したところ、友人は写真に施された加工や撮影テクニックに感銘を受けた様で、「眼鏡の丸みを強調する、アングルと光加減ね、本の紙から黄色が跳ね返るのよ」なんて熱く語っています。読書好きの私はこの特集を読書の視点に立ち、カメラ好きの友人は写真に、それぞれ見るポイントは違いますが“眼鏡で可視化された隠された世界、これをうまく表現している点を評価するべき”という意見は同じです。様々な視点から鑑賞でき、かつテーマの伝達力が秘められているとは、これは雑誌の特集を超えて一つの芸術作品だなと思いました。
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様々な視点から鑑賞してみても はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2016年9月24日
友人とは周辺地域のカフェやショッピングスポットは行き尽してしまい、会う度に近場で面白い場所ないかななんて話していました。そんな時に友人が私の行きつけの図書館に行ってみたいと言いだし、私も友人の行きつけには長年行っていなかったのでお互い行きつけを案内し合おうという事になりました。
当日は最初に私の行きつけ図書館前に向かいました。入館し別行動で一周りし終えると友人はしめしめと笑っています。私が最近よく話す欧州の料理のネタは、特設コーナーとして「世界の料理本を集めました」の中にある本から採取してきたんだろうと、意図しない形で蘊蓄の知識源がさっそくバレてしまいました。その後友人の行きつけを訪れ、彼女が好きな民俗学コーナーに行くと、なるほど、思考の変遷や傾向の原点はここにあったのかと納得。友人が気に入っている民俗学者の本が多く陳列されていて、先ほど自分がかけられたばかりの、しめしめ的な笑いが込み上げてきました。「やっぱりここに居たかぁ」と言わんばかりの恥ずかしそうな顔で友人が私の肩を叩きました。行きつけの図書館を案内するという事は、頭の中をのぞき見されている様な気がして少々恥ずかしいものです。しかし本の陳列されている本の選別基準や、例えば哲学コーナーと社会学コーナーが離れているか否かとか、そういう細かい箇所から自分の行きつけとの差異を見出していくのは楽しい作業です。お互い紹介し合うのは恥ずかしいですから、こそっりと忍び込むくらいでいいのかもしれません。
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行きつけの図書館を紹介し合う はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2016年9月9日
晴れやかな空の下公園のベンチに座って読書もいいし、風が強い日は窓の軋みを横目にひっそりと読書をするのもいい。どんな天気であれ、本に集中できたら勝ちで、読み進めていく内にそんなこだわりなんてすっかり忘れてしまうものです。しかし私は雨の日の読書はスイッチが入るのに時間がかかります。雨の日は湿気が多いため、乾物である本や読書の際に嗜む茶葉やコーヒー豆を湿っぽさせてしまう脅威を秘めています。だから特に紙の繊維が緩くなっている年代物の書物や紙の薄い雑誌は、まず本棚から降ろして手にとった時に張りの無さを感じる程ですし、ページをめくるといよいよそれがよく分かります。シャンとしないでふにゃらと、親指と人差し指でページをめくる時、特に紙の柔らかさを実感するのです。茶葉やコーヒー豆も、湿気により香りが漏れ出していたり、いつもと違い慣れない風味になったりします。ハリのない周りのみんなに誘われて、もれなく私もぼやっとしてしまう雨の日。湿気でまとまらない髪の毛、頭の周りを覆うもやもやの蜃気楼、ぼんやりとした頭で文字を追っても暖簾の腕押し状態。神経がピンと起き上がるまで以前観た事のある映画や画集をぼーっと見つめて待つ、コンディションが整ってきたら読書やお茶淹れをすると、これが私なりの雨の日の始め方です。
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私なりの雨の日の始め方 はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2016年8月26日
昔、私の実家には変な習慣がありました。父がトイレで読書をする癖があり、そのせいでトイレットペーパーなど保管しておく棚の上には常に父用の本が何かしら置いてあったのですが、それを真似した母や兄弟も父に続き本を並べ、遂にまだ小学三年生くらいだった私まで自分の本を置いておくのは格好いい事なのだろうと思い込みお気に入りの本を並べたのです。
それから誰かがブックエンドを持ち込みいよいよ本格的に本棚らしくなりました。並んだ背表紙を眺めてこの本は誰のかなとか、へぇこんな本を読んでいるのかなんてワクワクしながら用を足した記憶があります。私の本はヤングアダルト小説だったり漫画ばかりで、他の家族からみればすぐに私のものだと分かっていたはずです。マメな性格の父の本には大抵しおりが挟まっていたり、母が一回トイレで大好きな恋愛小説に没頭するとなかなか出てこなくなったり、それぞれの読書スタイルが垣間見れて、あれはとても新鮮で面白い習慣だったな今さらながら思います。家族の中で取り立ててトイレ図書館について話をする事はなかったのですが「朝のトイレが込み合う時間帯は本は禁止にしよう」と、夕食時に突然父が言った事はよく覚えています、読書好きの父の事は他の家族の本まで気になってしまい遅刻しかけた洋で自戒の意を込めていたと、後に母から聞いて二人して笑った事を思い出しました。
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昔私の家のトイレはには本棚がありました はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2016年8月11日
学生時代の友人から手書きの手紙をもらいました。いつもはSNS上でデジタルなやりとりをしているので、友人のアナログ手書き文章を見た時は、こんな字を書く人だったけと可笑しささえ感じました。SNSでは絵文字や顔文字など感情を表す記号を簡単に使う事ができますが、自身のペンをもってそれらを描く(又は文章で書き表す)となると手こずってしまうものです。デジタルな文書作成が普及していなかった時代は全ての書物を手書きで書き留めていた訳で、作家さんなんてあの文量の文字を全て直筆していたのですから頭が上がりません。
以前文豪の直筆原稿を目にする機会があったのですが、淡々と文字を綴っている原稿もあれば、まるで印象派の絵画の様に文字か何か分からない線がうねり狂う原稿もあったり、文章を書くと言う事は大変なんだな…と改めて痛感させられました。デジタル文書作成におてはどんなに自身の感情が荒れていても表出される文字は常に均一に整っていますから、それは味気ないとも便利だとも言えます。私は、デジタル入力は荒れ狂っている感情を是正する安定装置だと捉える事にしていますが。
友人からの手紙を手書きで返そうと思ったのですが、デジタル文書作成慣れしている私には難儀な事が多いものでした。バックスペースが使えない事や漢字変換がない事に躓き、なかなか書き進められません。こうなったら最終手段と言う事でPCを開き、友人への手紙をPC上で作成してそれを書き写す事にしたんです。そうしたら一文にだって何十分もかかり何枚も紙を無駄にしていた私が、いつも通りにすんなりと手紙を書き上げる事ができました。なんだか小癪な手段に思えますが、今の私にとってはこれがベストな文章作成手段です。
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PC入力時代の産物 はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2016年7月27日
一年前にできた古本屋さん、以前に行った時は黒縁眼鏡の似合う女性店主が一人でお店に立っていました。雑多な古本屋というよりはセレクト古本ショップと呼ぶのが相応しい、拘りのある品揃えで、絵本や西欧の挿絵集・昭和初期頃の漫画など絵画色の濃い本が並んでいました。広すぎない店内に点々と置いてあるサボテン、温かみ漂う木の本棚とオレンジ色の照明で、ほっこりとした力み過ぎない雰囲気に憧れを抱いた記憶があります。
そんな古本屋さんへ久しぶりに行ってみる事にしました。ドアベルの音とともに入店したらハンドタオルで涙を拭う女子高校生と目が合い、びっくり。思いもしない事態に戸惑いましたが、すぐに以前の女性店主から「どうぞ、いらっしゃいませ」と、ゆっくり朗らかに挨拶をもらいました。「どうしたんですか?」なんて野次馬で好奇心の赴くままになりがちな自分を抑えて、何事もなかったかの様に店の奥に入っていきました。「ほんと、ありがとうございました。また来ます!」と鼻をすする女子高生、「うん、何時でも来てね、今日は気を付けて帰るんだよ?」と店主。また鳴り響いたドアベルの音の後ろで、二人は最後に何やら話をして女子高生は店を出ていきました。
途端に静まり返った店内、私と店主の二人だけになりました。以前来た時のほっこりとした印象よりかは、心なしか爽やかな空気を感じるのは気のせいでしょうか。女子高生の涙の理由は、本が“少女の詩”でセレクトされている事などと関係があるのかななんて、気になる事がたくさんできました。店を出る時「お気をつけて」と声をかけてくれた店主、彼女の優しい声に背中を押されたくなる女子高生の気持ちが、少し分かった気がします。
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背中を押してくれる本屋さん はコメントを受け付けていません