Posted by admin on 2018年7月29日
自分の想像もつかない恰好で書物を読んでいる人を見ると呆気に取られてしまいませんか?例えば、おじいさんが新聞を大きく開き、顔に被せるような勢いで上に掲げて読んでいる姿を見た時は「なぜあんなに腕を上げるんだ……」と呆気にとられて見入ってしまいました。小学生くらいの子供が本に顔をうずめて超至近距離で(もはや顔と本はべったりとくっついていたようにも見えましたが)読んでいた時もついつい目がいってしまいました。他人から見るとただの変な恰好にすぎないけれど、その人にとってはそれれが本を読む際のベストな姿勢なのです。おじいさんはずっと腕を上げたまま本を読んでいたので、あれ程の長い時間、あの高さをキープし続けるには長年の習慣の中で得た特別な筋力が必要だと思うんです。なんなくこなしているところから思うに、あの姿勢はおじいさんにとっては当たり前の事で、日頃からあの状態でいるのでなんの苦でもないのではないでしょうか。
読書に夢中になると他人からみてどうだとか、気にならなくなりますよね、私もそうです。外ではなるべ意識して姿勢を正していますが、家で読書している時なんて、思い返してみるとかなりお恥ずかしい恰好をしているような気がします。まぁ家なので、何も考えずに読書に集中する事が癒しなので、誰にも迷惑かけていませんし、いいですよね。
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本を読む際はその人にとって一番楽な姿勢で はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2018年7月14日
レンコンの断面の形って見ていて飽きません、小さい時からあの規則正しくもどこか不安定なポツポツが大好きでした。この穴のおかげでレンコンは「見通しがいい」縁起の良い食べ物とされ、おせち料理などによく使われています。この穴は重要で、水上に顔を出している葉や花から空気を取り入れ、いつも泥の中に沈んでいる根や茎にそれらを送る通気孔の役目をしています。まさに生き残るための知恵と進化、しかしお皿の上に並べられる時にはその進化の賜物である穴は、ただぽっかり口を開けているだけで箸を引っかけるのにちょうどよいくらいにしいか思われないのでしょうが。
形には意味があります、最初は巻物だった文書が綴じられて、冊子状の本になった事実にもきっと文明の進歩とともに多くの人々が後者を求めたのです。思いつくあたりでは文量が多くても簡単に遡れるようになった、読んでいる際に場所をとらないなどでしょうか。また、丸よりも四角の方が収納力が高いため、棚に積んでも崩れず多くを貯蔵しておける点も、人々が扱う文字や情報の増加を物語っていると思います。現代でいえば、電子書籍の誕生によりインターネット上で管理するデータとしての本、実態のない本という概念が誕生しました。これもまたなるべくしてなった形。ひょっとするとレンコンだって、空気を水分から抽出し茎や根が直にそれらを吸収する事ができるようになって、いつか穴がなくなってしまうかもしれませんね。
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形には意味がある はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2018年7月1日
カフェで、店内に限り貸し出し自由な本や新聞・雑誌が置かれたブックラックの隣の席に座りました。人の行き来が盛んな場所は避けがちなのですが、そこしか空いていなかったのでしょうがないと思いつつも、面白い発見がたくさんありました。新聞マニアのおじいさんは、一社読みお合わると次は別の社のものを手に取り鋭い目つきで読み耽り、そんな調子で私が席を立つまでひたすら各社の新聞を読んでいました。おしゃまな女の子は大人の女性向けファッション雑誌を手に取り、ふんふんと目を通し「これかわいーおかぁさーんみてみて」とはしゃいでいたり。いわゆるイケメン風の男性が料理本をじっくりと読んでいて、彼はモテそうだなとか思ったり。たまには人の読書の様子を伺うのも面白いものです。本の返し方も人それぞれで、裏表や背表紙の向きを全く気にしない人もいれば、しっかり揃えるだけでなく、元々置いてあった本の向きまで直していく人もいるから驚きです。注文したコーヒーとマフィンを持ってきた店員さんが「私もその本読んでるんです」とテーブルに置きっぱなしにした本をみて言いましたが、実は頭の中は本ではなくて本を選ぶ人の事でいっぱいになっているのですがそれは秘密です。
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人の本の貸借をみているのも面白い はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2018年6月17日
美容室で髪の手入れをしてもらっていた際、カレーを特集している雑誌を読んでいたのですが、担当してもらっている美容師さんが「カレー美味しそうですねぇ、空腹がマックスなので目がいっちゃいますよ」と笑いました。時刻は13時をまわっており、話によるとまだ昼食をとっておらず腹の虫が雄たけびを上げているんだとか。彼女曰く、美容師の仕事はとても不規則でご飯の時間をまとまって摂る事が難しく、合間に軽食やお菓子をつまむ程度でしのぐことが多いそうです。そんな食事を摂れない程多忙な彼女に見せつけるように、ほかほかの白米と肉の塊がごろっと入った照りの良いカレールーが載ったページを開いていたとは我ながら酷い仕打ちです。「その写真のカレー食べた事あるんでよ。だから勝手に味が思い出されるというか、涎が自然にあふれてくるんですよ」なるほど、よりによって食べた事のあるものだったとは。とくにカレー独特の香りや味の風味は、嗅覚や味覚に痛烈な記憶を残しますから、彼女は怒っている訳ではないのですが申し訳なさが込み上げてきます。「じゃあこっちのページにしておきましょうか」「はは!それはいいですね、食欲なくなりますね」私が開いたのはダイエット特集のページ、弛んだ身体のビフォア―と引き締まった身体のアフターが並んでいます。「あ!でもこれも美味しそうなイエットレシピが載ってる!」と思って目を上げ鏡の自分と目が合うと、すっかり理想通りのスタイルに仕上がっていて呆気にとられてしまいました。どんな話をしていても手は止めず確実にこなす、彼女の美容師としてのプロ意識の高さを実感しました。
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美容師さんの空腹を助長する はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2018年6月2日
雑誌に投稿されていた子供の可愛らしいお話を読みました。投稿者はお母さん、絵本好きな親子で寝る前にいつもお母さんの膝の上に座って読み聞かせするのが日課なんだそうです。そんな投稿者さんは娘さんのために、紙芝居を図書館で借りてきて、リビングのテーブルを台にして娘さんを向かい合わせに座らせて読み始めたら、娘さんはなんだか不満げな表情をしたんだとか。お話が気に入らなかったのかなと思うと、「ママんとこがいいーの」と立ち上がり、投稿者さんの膝の上に潜り込んできたんだそうです。可愛らしい事に、娘さんにとって“読み聞かせの時間=お母さんの膝の上”というお約束があるんですね。紙芝居はお向かいにいないと読めないんだよと言っても「ここがいーの」と言って聞かないので、読み手の確認用として背面に白黒で小さく描かれた前面の絵を指さしながら読み進める事にしたそうです。お母さんの中では向かい合わせで読んで絵本にはない臨場感や特別な感じを味わってもらいたかったそうですが、小さな絵でも楽しめたみたいですし「なにより私の膝の上が娘にとって絵本を読む場所だと思っている事が嬉しかったです」とあって、読み聞かせを介した親子の温かいお話にほっこりした気分になりました。
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読み聞かせはお母さんの膝の上 はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2018年5月19日
スーパーなどでセルフレジをよく目にするようになりました。わりと最近新設された図書館にはセルフ貸出機たるものがあり、初めて見た時は驚き感心したのを憶えています。それは電車で少し離れた町にある図書館に行った時の事でした。新館ができるまでプレハブづくりの仮設図書館にて長らく貸出を行っており、一年弱かかってやっと完成したピカピカの図書館に足を踏み入れると、高い天井と大きな窓、メープルの木でつくられたという温かみのある本棚は程よい間隔で立ち並んでおり、広々とした優しい雰囲気に心が癒されます。図書館にありがちな窮屈で湿っぽい感じは全くありませんでした。散策していると所々に台がありその上にガラス製のパッドと、そこに接続されているタッチパネル式のデスクトップが置かれています。横に掲げられた説明書きを読むと、これはいかにも「セルフ貸出機」ガラス台はスキャナーになっており、館内の本に内臓されたICチップを読み取って貸出処理を自分自身で行える。綺麗なガラスのパッドがお洒落で、デスクトップの文字や表示されるボタンは大きく操作しやすい、これこそ最先端!といった感じですよね。
小学校低学年くらいの女の子と彼女のおばあちゃんが、台に近づき説明書きを読みながら初めての貸出手続きに苦戦しつつも、楽しそうにスキャニングしています。かつては台帳に手書きで管理し、やがて司書さんに持っていきバーコードにて読み取り管理していた時代から、ついに利用者自身で手続を済ます時代へ。私がおばあちゃんになる頃には、図書館にはどんなテクノロジーが導入されているのか楽しみです。
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図書館テクノロジーの歩み はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2018年5月7日
読みやすい文章を書く人は美文家、読みづらい文章を書く人を悪文家と言います。難解な研究結果や考察を多くの人に読んでもらうためには読みやすい文が好まれ、学者にとって良い文章だと評価される事は研究と同じくらい大切な事なんだかとか。美文という言葉、気に入ってしまいました、読みやすいから易文などではなく、美しいのです。それに引き換え悪文とは、とってもワルくて怖そうな印象ですよね、そんなレッテル貼られたら堪りません。文体ってその人の思考の癖が顕著に顕れていて、良くも悪くも、書物を読むにあたって深みを与えてくれるものだと思います。友人は普段、難しい言葉は使わず分かりやすく明朗に話すのですが、いざ文章を書かせると彼女の話し言葉からは想像もつかない、うねりの利いた条文のような文章が繰り出されるから驚きです。以前手紙をもらったのですが、花模様の可愛らしい便箋に筆圧の濃い字で堅苦しい文章が書かれていて、便箋と文章のアンバランスさはもとより普段の会話の調子との違いに驚かされたのを覚えています。ずいぶんお堅い文章を書くねと言うと「え!そうかなぁ?ぜんぜん自覚ないかも……いつもあんな感じで書いてるから」と言っていました。悪文家で有名な哲学者、友人にあてた手紙は茶目っ気のある読みやすいまさに美文だったという話があります。文体は読み手としての他者があってこそ初めて評価されるものであり、それは誰かに宛てたか何を書いたかによって容易く変るものなんですね。
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美文家と悪文家の条件 はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2018年4月25日
行きつけのカフェに行ってコーヒーを頼んだら「すみません、いつものサイズのカップが立て続けに二つも割れてしまって。一回り大きいカップでお出ししてもよろしいですか?」と尋ねられました。とくにこだわりはないので快諾すると、「申し訳ございません!お詫びと言っては何ですが、カップのサイズに合わせて多めにコーヒーお淹れさせて下さい」と言われましたが、がぶがぶ飲めればいいってものではないので普段のサイズで用意してもらう事にしました。そして、運ばれてきた一回り大きいカップ、中を覗くと寂しい印章。これは視覚マジックというものでしょう、容器が多いだけで、同じ100mlでも小さい容器に入っているのより少なく見える錯覚。これは本でもみられる現象で、同じ文字量でも大きめの紙に印刷されてページ数が少ない方が、小さめの紙でページ数多く印刷されたものに比べて読み終わるのが早くなる気がします。もちろんこれは、私の勝手な“気がする”レベルの問題ですが、科学的に証明されていませんがいつか脳科学の先生たちが読書についての容量対比の錯覚について証明してくれる日を待ちましょう。
それにしても立て続けに二つもカップが割れるとはお店も大変だなと思いました、二度ある事は三度ある、今この空間に“パリーンッ!”という衝撃音が響き渡ってもおかしくないという事ですよね、なんだかそわそわします。
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外枠の大きさと中身の見え方のマジック はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2018年4月11日
本が大好きでいつでも本を読んでいるような人の事を本の虫といい、これは紙魚(しみ)という虫の性質を語源としています。しかし彼らの見た目は、ダンゴムシを平べったいような体に長い触角二本と一対の尾毛と、尾糸とよばれる突起があり、つまり身体中から手足やら触角やらがうようよ飛び出しているなかなかグロテスクなものです。紙魚は古い本にわいてとくに糊付けされたものを好みます、本に潜り込んで一心不乱に紙や糊を食べる姿を黙々と読者する人にあてがい読者の虫と呼ぶようになったとか。
みなさんは彼らを見たことがありますか?私は何度かありますが、見るたびに背筋が凍りつく心地がします。本を開くとポトリと落ちてきたり、偶然にも開いたページに居たことだってありましたから。極め付けは、動きの素早さです、とても滑らかにしゅりゅしゅるりとたくさんの手足を駆使して素早く動きます。紙魚の“魚”という字は、この動きの滑らかさが水を泳ぐ魚に似ているからつけられたようです、その造形といい動きといい日常生活に訪れるちょっとした脅威・歪みと言っても過言ではないと思います。しかし本が好きなもの同士ですから、いつかは彼らの姿を見つけても大げさに驚かないくらい肝の据わった人間になりたいものです。
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紙魚、本の虫 はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2018年3月27日
図書館の絵本コーナーの近くの椅子に腰かけて本を読んでいたら、突然子供が泣き始めました、静かな館内に響き渡る阿鼻叫喚に母親はたじたじです。女の子はニ・三歳でしょうか、絵本を持った手をだらりと下げて真っ赤な顔で大泣きしています。司書さんが「どうしたのかなぁ?」とまるで保育士さんのような優しい調子で声をかけると鳴き声はピタリと止みました。突然の司書さんの出現にビックリしたようで、目を丸くして肩で息をしています。「これ、ちがう!」下唇を噛みしめて司書さんに持っている絵本を突き出すと、すかさず母親が「このキャラクターがテレビアニメでやってるんですけど、この本と顔が違うって怒ってるんです。すみません……」なるほど、絵本に描かれているのは私が子供の頃から絶大な人気を誇っていたこの国を代表するキャラクター。突き出された本はそれの原作のもので、渋い色味に時代を感じるタッチで古めかしく、ストーリーもシュールでブラックジョークが含まれているものだってありますから、嫌だと言う理由も分かります。女の子からすればアニメのタッチで描かれた彼が大好きなのであって、いきなりこれが本物なんだよと言って、似ているけれど全然違う彼の姿を見せられたらショックを受けるはずですよね。しかし母親だって良かれと思って本を読んであげたのですから、子供心は難しいものです。それを聞いた司書さんは笑って、頭をぽんぽんと撫でて「よく気づいたわねぇ!偉いわー、ね!○○ちゃんが好きなのと違くて嫌だよねぇ、あ、こっちにかわいいのがあるわよ」と言って、アニメタッチの絵本を持ってきてあげました。「ありがと!」と元気いっぱいにお礼を言い、母親も一安心といった表情です。固唾をのんで見守る事しかできませんでしたが、二人が笑顔になってよかったなと思います。
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図書館で子供が泣いていた理由 はコメントを受け付けていません