Posted by admin on 2018年5月19日
スーパーなどでセルフレジをよく目にするようになりました。わりと最近新設された図書館にはセルフ貸出機たるものがあり、初めて見た時は驚き感心したのを憶えています。それは電車で少し離れた町にある図書館に行った時の事でした。新館ができるまでプレハブづくりの仮設図書館にて長らく貸出を行っており、一年弱かかってやっと完成したピカピカの図書館に足を踏み入れると、高い天井と大きな窓、メープルの木でつくられたという温かみのある本棚は程よい間隔で立ち並んでおり、広々とした優しい雰囲気に心が癒されます。図書館にありがちな窮屈で湿っぽい感じは全くありませんでした。散策していると所々に台がありその上にガラス製のパッドと、そこに接続されているタッチパネル式のデスクトップが置かれています。横に掲げられた説明書きを読むと、これはいかにも「セルフ貸出機」ガラス台はスキャナーになっており、館内の本に内臓されたICチップを読み取って貸出処理を自分自身で行える。綺麗なガラスのパッドがお洒落で、デスクトップの文字や表示されるボタンは大きく操作しやすい、これこそ最先端!といった感じですよね。
小学校低学年くらいの女の子と彼女のおばあちゃんが、台に近づき説明書きを読みながら初めての貸出手続きに苦戦しつつも、楽しそうにスキャニングしています。かつては台帳に手書きで管理し、やがて司書さんに持っていきバーコードにて読み取り管理していた時代から、ついに利用者自身で手続を済ます時代へ。私がおばあちゃんになる頃には、図書館にはどんなテクノロジーが導入されているのか楽しみです。
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Posted by admin on 2018年5月7日
読みやすい文章を書く人は美文家、読みづらい文章を書く人を悪文家と言います。難解な研究結果や考察を多くの人に読んでもらうためには読みやすい文が好まれ、学者にとって良い文章だと評価される事は研究と同じくらい大切な事なんだかとか。美文という言葉、気に入ってしまいました、読みやすいから易文などではなく、美しいのです。それに引き換え悪文とは、とってもワルくて怖そうな印象ですよね、そんなレッテル貼られたら堪りません。文体ってその人の思考の癖が顕著に顕れていて、良くも悪くも、書物を読むにあたって深みを与えてくれるものだと思います。友人は普段、難しい言葉は使わず分かりやすく明朗に話すのですが、いざ文章を書かせると彼女の話し言葉からは想像もつかない、うねりの利いた条文のような文章が繰り出されるから驚きです。以前手紙をもらったのですが、花模様の可愛らしい便箋に筆圧の濃い字で堅苦しい文章が書かれていて、便箋と文章のアンバランスさはもとより普段の会話の調子との違いに驚かされたのを覚えています。ずいぶんお堅い文章を書くねと言うと「え!そうかなぁ?ぜんぜん自覚ないかも……いつもあんな感じで書いてるから」と言っていました。悪文家で有名な哲学者、友人にあてた手紙は茶目っ気のある読みやすいまさに美文だったという話があります。文体は読み手としての他者があってこそ初めて評価されるものであり、それは誰かに宛てたか何を書いたかによって容易く変るものなんですね。
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Posted by admin on 2018年4月25日
行きつけのカフェに行ってコーヒーを頼んだら「すみません、いつものサイズのカップが立て続けに二つも割れてしまって。一回り大きいカップでお出ししてもよろしいですか?」と尋ねられました。とくにこだわりはないので快諾すると、「申し訳ございません!お詫びと言っては何ですが、カップのサイズに合わせて多めにコーヒーお淹れさせて下さい」と言われましたが、がぶがぶ飲めればいいってものではないので普段のサイズで用意してもらう事にしました。そして、運ばれてきた一回り大きいカップ、中を覗くと寂しい印章。これは視覚マジックというものでしょう、容器が多いだけで、同じ100mlでも小さい容器に入っているのより少なく見える錯覚。これは本でもみられる現象で、同じ文字量でも大きめの紙に印刷されてページ数が少ない方が、小さめの紙でページ数多く印刷されたものに比べて読み終わるのが早くなる気がします。もちろんこれは、私の勝手な“気がする”レベルの問題ですが、科学的に証明されていませんがいつか脳科学の先生たちが読書についての容量対比の錯覚について証明してくれる日を待ちましょう。
それにしても立て続けに二つもカップが割れるとはお店も大変だなと思いました、二度ある事は三度ある、今この空間に“パリーンッ!”という衝撃音が響き渡ってもおかしくないという事ですよね、なんだかそわそわします。
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Posted by admin on 2018年4月11日
本が大好きでいつでも本を読んでいるような人の事を本の虫といい、これは紙魚(しみ)という虫の性質を語源としています。しかし彼らの見た目は、ダンゴムシを平べったいような体に長い触角二本と一対の尾毛と、尾糸とよばれる突起があり、つまり身体中から手足やら触角やらがうようよ飛び出しているなかなかグロテスクなものです。紙魚は古い本にわいてとくに糊付けされたものを好みます、本に潜り込んで一心不乱に紙や糊を食べる姿を黙々と読者する人にあてがい読者の虫と呼ぶようになったとか。
みなさんは彼らを見たことがありますか?私は何度かありますが、見るたびに背筋が凍りつく心地がします。本を開くとポトリと落ちてきたり、偶然にも開いたページに居たことだってありましたから。極め付けは、動きの素早さです、とても滑らかにしゅりゅしゅるりとたくさんの手足を駆使して素早く動きます。紙魚の“魚”という字は、この動きの滑らかさが水を泳ぐ魚に似ているからつけられたようです、その造形といい動きといい日常生活に訪れるちょっとした脅威・歪みと言っても過言ではないと思います。しかし本が好きなもの同士ですから、いつかは彼らの姿を見つけても大げさに驚かないくらい肝の据わった人間になりたいものです。
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Posted by admin on 2018年3月27日
図書館の絵本コーナーの近くの椅子に腰かけて本を読んでいたら、突然子供が泣き始めました、静かな館内に響き渡る阿鼻叫喚に母親はたじたじです。女の子はニ・三歳でしょうか、絵本を持った手をだらりと下げて真っ赤な顔で大泣きしています。司書さんが「どうしたのかなぁ?」とまるで保育士さんのような優しい調子で声をかけると鳴き声はピタリと止みました。突然の司書さんの出現にビックリしたようで、目を丸くして肩で息をしています。「これ、ちがう!」下唇を噛みしめて司書さんに持っている絵本を突き出すと、すかさず母親が「このキャラクターがテレビアニメでやってるんですけど、この本と顔が違うって怒ってるんです。すみません……」なるほど、絵本に描かれているのは私が子供の頃から絶大な人気を誇っていたこの国を代表するキャラクター。突き出された本はそれの原作のもので、渋い色味に時代を感じるタッチで古めかしく、ストーリーもシュールでブラックジョークが含まれているものだってありますから、嫌だと言う理由も分かります。女の子からすればアニメのタッチで描かれた彼が大好きなのであって、いきなりこれが本物なんだよと言って、似ているけれど全然違う彼の姿を見せられたらショックを受けるはずですよね。しかし母親だって良かれと思って本を読んであげたのですから、子供心は難しいものです。それを聞いた司書さんは笑って、頭をぽんぽんと撫でて「よく気づいたわねぇ!偉いわー、ね!○○ちゃんが好きなのと違くて嫌だよねぇ、あ、こっちにかわいいのがあるわよ」と言って、アニメタッチの絵本を持ってきてあげました。「ありがと!」と元気いっぱいにお礼を言い、母親も一安心といった表情です。固唾をのんで見守る事しかできませんでしたが、二人が笑顔になってよかったなと思います。
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Posted by admin on 2018年3月13日
血をみると眩暈がしたり、トイレにいくと酷い腹痛の記憶を思い出して気分が悪くなる症状を迷走神経反射と言います。迷走神経はほぼ全身の臓器に張り廻っており、そのため、身体の一部に危険が迫ると反射的にそれから身を守ろうと中枢を通して他部に反射を起こす性質を持っているのです。過去に血に対してのトラウマや腹痛で大変苦しんだ記憶などがあると、意識外で神経がそれらを憶えてしまい、予期せぬ形で保護反射に見舞われるのです。このシステムが敏感に作動する人(この症状の出方には個人差があり、血に恐怖を抱いていても卒倒しない人もいたりと人それぞれ)からすれば勘弁してくれと言わんばかりでしょうが、人間の体って不思議でおもしろいなと改めて思いました。この現象と似た例で、漫画などで車やバイクの座席に座ると人が変わるなんて設定ありますよね。私も図書館の決まった席や、この場所でこの時間帯にとなんとなく決めたシチュエーションで本を読むと驚ほど頭が冴え渡ってサクサク本を読み進める事ができたりします。逆に言えば、なんとなくここは集中できないと一度でも思えば、その場所では集中を要する作業には使用しなくなったりもします。無意識下で刻まれる記憶と、それにまつわる神経や感覚のイタズラはコントロールできないため、扱いに慣れるまでは大変ではありますが。これもまた生きている証、そういう仕組みがあると知っているだけでも少しは安心できます。
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Posted by admin on 2018年2月26日
読書をしていて、これはいいなと思った箇所の端を折る行為をドッグイヤーと言います。しかし一度ついた折り目を完璧に修復するのは不可能なので、ドッグイヤーする際は注意が必要です。昔、実家で購読していた健康雑誌がトイレに置かれていて、トイレに入る毎になんとなく目を通していました。父か母か、毎号誰かが必ず折り目をつけるので、パラパラっとめくると必ずその箇所が開くので、自分でつけた目印ではないにも関わらずその箇所ばかり読んでいた気がします。たったひと手間だけでページの重量が変わり注意を惹きつけるから不思議です。折られた様が犬の耳のようだからドッグイヤーとは、柴犬などではなくビーグルやゴールデンレトリバーなどの垂れ耳を思っての事でしょう、名付けた人のセンスが伺えますよね。
しかしいまだ私は文庫・ハードカバーの本を折る勇気はありません。手を加えてしまう事により次に読書する際に“折った時の私”という第三者が介入してきそうだから、そんな気がするからです。一方雑誌や冊子などはためらいなく折れます、雑誌や冊子などは日々更新されてゆく旬の情報を得るための読書と割り切っているからでしょうか。むしろ折り目を付けないと「これいいな」が颯爽と目の前を通り過ぎて行ってしまう、と言いながらパタパタと読み進めると気づいたらドッグイヤーだらけではないですか。何が本当にいいなと思ったのか分からなくなってしまった!という事態によく見舞われます、欲張りは禁物ですね。
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Posted by admin on 2018年2月14日
「あまいものと本はエスカレーターの上」と書かれた看板をデパートで見つけました。どういう事かと思ってエスカレーターに乗って上がってみると、その階には書店があり、隣に書店で購入した本を持ち込めるカフェがありました。カフェの店頭に置かれたショーケースにはホールカットされた様々な種類の可愛らしいケーキがあり、ケーキだけテイクアウトする事もできるようです。ケーキだけでなく、あんみつやデザートドリンクも豊富で、まさに「あまいものと本はエスカレーターの上」にあるのです。書店とカフェが々フロアにあるデパートやショッピングモールはたくさんありますが、看板の書き方によって好奇心がくすぐられ、よくある風景が魅力的に見えてくるものだなと思いました。
「ノスタルジーと本は曲がり角の先」という言葉を思いつきました。よく行く曲がり角の先の古本屋の看板のつもりです。そのお店から漂うノスタルジックな雰囲気は、古本屋の「古い」という字だけでは表しきれない味のあるものだと思うのでアイディアをお借りしました。「物は言いよう」とはよくいいますが、この後に「で角が立つ」と続き、本来は悪い意味になるという際に使われる言葉らしいです。しかし今回に関しては「物は言いようで輝きを増す」とでも言えるのではないでしょうか。
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とりとめのない風景も書き方次第 はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2018年1月31日
本屋さんのあの独特のにおいを表現するのは難しい、いつも考えるのですが、本・紙のにおい以外で表現する方法がなく自分の表現力や語彙の乏しさに不甲斐ない気持になります。友人に、○○のようにで比喩するとしたら何だと思うと聞くと「香ばしい海苔」のようだと自信満々に答えました。糊ならまだ分かりますがなんで海苔なのかと聞くと、物心ついた時から本屋=海苔のにおいだと思ってたから理由はないんだそうです。友人自身も追及する事ができない領域に染みついた印象であるという事です。
あの香りは紙から?インクから?「本 におい」でインターネット検索してみると、正体不明のあのにおいが多くの人の嗅覚に馴染み、様々な心情や記憶を呼び起こす誘発剤になっている事が分かります。本のにおい愛好家のために「印刷したての本の香りがする香水」たるものがヨーロッパにはあるという事を知って驚きを隠せません。欲しい!と思いつつ、常に自分からあのにおいが発せられているのは……どんな気分なんでしょうか。本屋にいった時に、嗅覚からふっと切り替わる空間が好きなので、有難さがなくなってしまうような気がしますが。友人からすれば、私がその香水をつけていたら「今日海苔くさくない?!」なんて驚かれてしまいそうですね。
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本のにおいは何のにおい? はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2018年1月17日
昔おばあちゃんが「風呂屋・飯屋・クリーニング屋の近くにある本屋は行くな」と言っていました、なぜって湿気で本が傷んでいるからなんだそうです、さらに言えばとくに飯屋はダメなんだそうです。商店街にそれらのお店が軒を連ね、元気に営業していた時代のお話です。今では換気設備が整い湯気や湿気が外部に漏れる事はないですし、商店街にある風呂屋さんは姿を消し、クリーニング屋だって店舗で洗濯・乾燥している事は珍しくなったものです。かつておばあちゃんが通っていた古本屋は定食屋の近くにあって、品揃えはとてもよく気に入った本はいくつもあったものの、定食屋から流れてくる煙や湯気などの影響を受けて、その店にある本の多くは異様に黄ばみ得体の知れないにおいが染みついていたそうです。しかし今のようにネットで本が買えたり、簡単に隣町まで移動して本屋を探し歩いたりできる時代ではありません。気に入った本があったらそこで買うしかないためどんなに黄ばんでいようが目を瞑っていたらしく、おばあちゃんの本棚の中で特に汚れが酷い本はそういった理由で購入されたものなのだと知ると感慨深いです。「古本屋の亭主から定食屋に何か言えばよかったのにね」と言うと、おばあちゃんは顔をしかめて「頭が上がんなかったんだと。あの本屋の親父ったら、定食屋で安く食わせてもらえるからっていっつもいい顔してたんだから」なるほど、文句を言ったら割引サービスを適用してもらえなくなる事を恐れていたとは。そのおかげでくっきりと汚れた本たち、いくつになってもおばあちゃんの記憶に刻まれ孫の私にまで語り継がれているなんて古本屋の亭主は想像もつかないでしょう。
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「飯屋の近くの本屋はやめとけ」というおばあちゃんの話 はコメントを受け付けていません