Posted by admin on 2018年12月15日
世界の図書館を調べてみたのですが驚きの連続でした。とくに欧米の図書館の内装は、ゴシック調やロマネスク調、はたまたここはルネサンス期に建築された宮殿の内部ではないかと思う程豪華絢爛なものが多くあります。建物はもちろんのこと、閲覧席の机や椅子、机に置かれたランプまでもが絵画の世界から飛び出してきたようなデザインです。高い天井に左右対象にそびえ立つ美しい柱、大聖堂のような天井画、本棚の脇に置いてある大きな彫刻など、こんな見応えのある空間にいたら読書や勉強どころではなくなってしまいそうです。うっとりしながら写真を見ていくと、そんな芸術まみれの空間で寛いで本を読んでいる人々、黙々と勉強する人が写っているんですね。彼らにとってはこれらの空間は日常の一部であり、なにも特別な光景ではない、私が近所の図書館に行くように、当たり前のように読書をする訳です。さらに感動した事に、近代建築や現代アートの風潮を取り入れた新しい風をまとった図書館だって世界にはたくさんあるという事です。一見するとUFOのようなテクノな外観の建物、天井近くまで壁一面に正方形で区切られた本棚にそってフロアがあったり、私の中の図書館像どころか建築の常識をも覆された気分です。世界だけでなく日本でも外観や内装にこだわった図書館が増えてきたようです。それも都心部ではなく地方に多いという事ですから、旅行がてら訪れてみたいものです。
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Posted by admin on 2018年12月3日
とある雑誌を読んでいると、色には人間の心理状態に作用する力があるという事を知りました。例えば赤やオレンジなどの暖色には興奮作用があり、気合いをいれたい時・元気を出したい時に背中を押してくれるんだそうです。一方で青・緑などの寒色には沈静作用があり、睡眠時・リラックスしたい時に眺めると心が落ち着くんだそうです。その本には「好きなカラーはありますか?あなたの身の回りに多いカラーは何ですか?」と投げかけ文句が、自分の身の周りを見渡してみると、なんとなく地味なものが多いなという印象。ベージュや紺に黒白。物を買う時「長く使いたい」とか「どんな場面でも使えそうな」とか日常における普遍性ばかりに注目してしまうのでこの通り気づいたら地味なデザインのものばかりが揃う訳です。しかしそんな地味な小物の中で唯一イロっぽさを放っているのがボルドーのブックカバーです。私にだってイロ気があるじゃない、なんてふざけつつ、家にあるブックカバーを思い返してみると黄緑にストライプ・花柄など服や鞄の地味さと裏腹に遊び心のあるデザインのものが多い事に気が付きました。たしかに身の回りのものを買う時はそれを使う場やそれを持って会う人の顔が思い浮かぶのですが、ブックカバーを買う際はそういう事は気にしないで純粋に「これお洒落だなぁ」とウキウキしながら選んでいる気がします。私にとって読書は自由に楽しむ事ができる癒しの場なんだなと改めて感じました。
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Posted by admin on 2018年11月21日
書店の子供向けコーナーの近くで立ち読みをしていた際、小学生くらいの女の子のグループが怖い話の本をキャーキャー言いながら読んでいる声が聞こえて、私が小学生の頃も、怖い話など流行っていた事を思い出しました。すると間もなくして、彼女たちの一人がただならぬ様子で「この話を聞いたら今日の夜、儀式をしないと霊が出るんだってー!どうしよう!」と悲劇めいた声を挙げました。周りの子たちも「キャー!」と言って手を繋ぎ合って本気で怖がっています。この話を聞いたら……つまり私も話を聞いてしまった内の一人です、もちろんそんなのフィクションですし幽霊なんて出ませんからそんなに心配しなくても。と言いつつ、彼女たちの必死の形相を横目で見ていると、なんとなくこちらまで不安な気持ちになってくるではありませんか。「大丈夫だよ!こんなの嘘だよ!」「でも、そんなに難しくないし、私は儀式しようと思う」女の子たちは口々に対処法について討論を始めました、好奇心と少しの不安の中、立ち読みの本に集中できず彼女たちの様子を横目で伺う事しかできません。あーでもないこーでもないと口論は終わる気配はありませんが、私は約束の時間があるのでもう書店を出なければなりません。信じている訳ではありませんが、儀式の内容を確認させてもらいたいなぁ……と怖気づきつつ、もういかなければなりません。結局その晩は、怖い話の事など忘れて早々に眠りに就いてしまいましたが、彼女たちがその後どういう結論を出したのか気になります。
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「この儀式をしないと霊が出る?!」と、騒ぐ女の子たち はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2018年11月6日
世界中で今この瞬間も多くの命が亡くなりつつ中で、私の想像もつかない死が至るところにあるのだと考えてみても、なんだか霧がかかったようにボンヤリとして実感する事ができません。きっと私は生死に関わる感覚が鈍っているのでしょう、恵まれている事に、紛争・獣・感染病などなど命を揺るがす危機は私の日常にはありません。もちろん明日地球が爆発するかもしれないし、次の瞬間には私が座る椅子ごと床を抜け地をマントルをも突き抜けマグマに落下するかもしれませんが、なんとなく、心のどこかで「そんな事起こるはずがない」と高をくくっている自分がいます。そんな私でも小説家・漫画家など、若くして亡くなった方のニュースを見聞きするとやけに死を身近に感じます。日常で触れる事の多い文学に従事している、同じ年代の人間の死を突如聞かされると鈍った感覚がピクピクっと動き始める気がするのです。何故そんな事を考えたのかと言うと、渡航注意と言われる国へ一人旅に出た友人から手紙が届いたのです。
「こちらでは道端に動物の死体や汚物が転がっており、たかが二三軒となりに行くのさえもまるで忍者のように神経を尖らせ忍び足で歩かないといけません。さらに金で買った水も食べ物も、目で見て鼻で嗅いで、舌の上に少しのせてみて害がないかを確認してからでないと食べる事ができません。そんな生活のなかで生死の感覚が冴えている今日この頃、やはり日本は平和だなと思います。しかし平和過ぎて生きるための感覚が鈍ってしまいますよね、せっかく人間として五感を持って生まれたのだからそれをフルに使ってみるのも悪くないのかなと思います」子供の笑い声が聞こえる昼下がりの公園でこの手紙を読んで、色々と思うところがありました。そこでこの平和の中で自分にとって生とか死とかの感覚が震える瞬間っていつだろうと考えた結果でした。生前の彼らの作品を鑑賞し、しかしこの作者はもういない、そう考えるとやはり私にとって一番命を身近に感じるのです。
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Posted by admin on 2018年10月25日
本を読んでいて、読みが分からない漢字を見つけた時、読み進めるのを中断して辞書をひく時と、「いや調べている場合じゃない!」と先を読みたい気持ちが勝って立ち止まる事ができない時があります。学生時代に英語の長文読解の際、分からない単語があっても深く考えず、それの品詞の種類だけ察知してなんとなく訳して文章を読み進めるべし、と教わりました。その技術が活きているのかもしれませんが、単語の意味が分からなくてもなんとなく要約して読み進める術を、読みたい衝動が先走る時は頭が勝手にそうするように動くのです。
しかしその教えには続きがあって、読み飛ばした単語は後にしっかり調べて頭に入れ、次回同じ単語が出てきた場合は理解できるようにしておく事。英文読解問題は勉強の一環で、試験に合格したい・テストでいい点を取りたいという目標の元行っていますが、読書に関しては野望や目標のために力を高めるものではないので調べるのをサボリがちです。しかし読めなかった事だけは覚えていたりするものなんですね、「あれ?この漢字、前も見たなぁ。その時もこうやって頭を抱えたなぁ」と。それに作家さんって単語や漢字の使い癖がありますから、自分の好きな作家さんが好んで使用する難読系のものは早めに調べておくにかぎるのです。
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読み飛ばしの技術 はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2018年10月10日
かつて友達のお父さんは“裏の古本屋”でした。私が勝手にそう呼んでいただけで怖い・変な人ではなく、知的で優しく親切な印象の人でした。どうして私がそんな風に呼んでいたかというと、友達から聞いた話によります。彼女のお父さんはかなりの多読家で仕事の帰りに本がぎっしり詰まった紙袋を両手に携えて帰ってきて、それを一週間くらいで読み終えてしまう。読み終えた本は駅前の古本屋に全部売りさばいて、また新しい本をたくさん買ってくるらしいのです。お母さんもその子も、そんな事勿体ないからやめようよと言っているのに、「もう読まないんだから、家に置いておくと邪魔になるし」と言って古本屋に持っていくのをやめる気はさらさらないお父さん。それどころか、売ってしまった本を読みたいと言って、わざわざ古本屋に行って立ち読みしたり買い戻してくる事もあったんだとか。その子と件の古本屋に行ってみると、「ここにある本ほとんどお父さんのだ」と言って棚三面ほどを呆然と見上げていました。そこにあるのは経済学や金融論の本ばかり、もはや「経済系の本コーナー」と化しています。
二人で本棚を見上げていると、古本屋の店主が現れ友達に「○○さんの娘さんではないですか、こんにちは」と声をかけました。やはりお父さんがこれだけの本を売りに来ているだけあって、店主は娘である友達の顔をしっかり覚えているようです。「いつもお父さんが本をいっぱい持ってきてごめんなさい」友達は恥ずかしそうに店主に謝りましたが、店主はとんでもないとニコニコ笑って「お父さんは経済を熱心に勉強している方だからね、こうやって自分で買った本を売りさばくのにも意味があるとか言っていたよ」。その時はそんな話を聞いても、友達も私も「やっぱりおかしいよね!」と笑い合っていましたが、今こうして少し経済学をかじると、お父さんがやっていた事が“金融”の概念に似通っている事を知りました。お金を融通させる、から金融、あるところからないところへ流すという定義。お父さんはあの古本屋に本を融通させ、さらなる繁栄を願っていたのかもしれません。
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裏の古本屋のお父さんの実践論 はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2018年9月26日
中・高校の校則でありがちな「学業やクラブ活動に必要ないものを校内に持ち込まない」というもの。例えば携帯ゲーム機や化粧品なんかはすぐに没収の対象になりますよね、没収対象の中でとくに記憶に残っているのが、漫画をめぐる先生と生徒の攻防です。週刊誌が発売される月曜日や単行本の発売日は、クラスの男子がこぞってそれらを持ち込んで休み時間にまわし読みしていました。しかし先生たちは「見つけ次第没収してやる」と目を光らせていましたから、男子達が休み時間に陰でコソコソ・机の下でこっそりと読んでいた姿が印象的です。私はよく本を学校に持ち込んでいました、もちろん私以外にも持ってきた本を学内で読んでいる生徒はたくさんいたのですが、先生に見られても注意を受ける事はありませんでした。それどころか「その本先生も読んだぞー」なんて本について話が弾む時さえあったので、本は学業に必要なもの・漫画は必要ないものと見なされていたのでしょうか。二つの扱われの違いにかつて私たちは違和感を感じていました。それならその性質を利用してやろうという頭のキレる者たちは、本なら注意されないのをいい事に、文学作品の表紙カバーに漫画を入れて難しい顔をしながらそれを読み始めたのです。すっかり騙されて「よしよし読書とは感心だ」なんて満足そうな顔で通り過ぎる先生、「ふむふむ」とわざとらしく頷きながらギャグ満載の「学業に必要ないもの」を読む生徒、今思い出してもあの光景は面白いものです。不自由さがあるからこそ人間は頭を使って創意工夫するのだなと改めて思います。それにしても漫画だって立派な文化であり、学生たちがそこから学ぶものは多くあると思うのですが……なんて校則の前では屁理屈に過ぎないのかもしれません。
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校則と漫画と本のパラドックス はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2018年9月11日
朝から雨が降っていた日、カフェに入ってしばらく読書をして、窓の外をみてみるとザーザーと降っていた雨はすっかり止んでいたので一安心して外に出ました。しかしそこで待っていたのは猛烈な横殴りの豪雨、そうです、窓ガラス越しには降っていないと思う程の勢いだったという事です。窓を見た時まっすぐの線しか追っていなかった自分の、予見の甘さを思い知りました、地面を削ぐように斜めに突き刺さる水の線。もう一度カフェに入って先ほどの同じ角度から確認してみると、木々は風で大きく揺れているし轟々と風が吹き付ける音はっているし気づかなかった自分にびっくりです。
この雨の中帰るのは気が引けるし、かと言ってもう一杯珈琲を飲めるかと言ったらもうお腹いっぱいです。窓の前で呆然と立ち尽くしていると顔なじみの店主のおじさんが「またいらっしゃて下さったんですか?」と冗談まじりに話かけてきたので、理由を説明すると「読んでいた本の中の天気は?」と聞かれ、ハッとして、晴れていましたと答えると店主は得意気に笑いました。「本の中の天気が頭に擦り込まれる事ってあるんだよー。こんな奥ばったところにある店だしさ、外の事なんて忘れちゃうよね」長年勤める店主ですら外の天気を思い違える事があるそうで、駅まで傘をさしたまま歩いていった事だってあるんだからと茶目っ気たっぷりに言います。その後店主のはからいで、雨が止むまで店にいさせてもらえる事になりました。
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窓から雨が見えなくなるほど、穏やかな空間 はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2018年8月28日
子供の頃、どうしてもほしい本があって書店に行ったのですが本棚に置いていなくて、勇気をだして店員さんに問い合わせてみたら少々お待ち下さいと言って、本棚の下にある引き出しを開けてそこから在庫を取り出して渡してくれた時の衝撃は今でも忘れていません。私があまりにも驚いた顔をしていたのでしょう、店員さんに「どうかしましたか?」と尋ねられ、恥ずかしくなって本を受け取り、顔を真っ赤にして母の元にかけていったのを覚えています。当初は書店だけでなく、すべての商店において店頭に出ている分がその店が抱える商品のすべてだと思っていたのです。子供向けの絵本や教育番組で描かれるお店屋さんは、店頭でのやりとりがメインであり倉庫裏の事情が描かれる事はないですから。だから倉庫裏とか棚下・棚上という概念がなかったので、まず本棚の下のスペースが引き出しになっている事自体かなりの驚きだったのです。さらに秘密のスペースにぎっしりと本がつまっている事実も信じられず、目の前の光景にただただ目を奪われて呆然と立ち尽くしてしまいました。そんな事があった帰り道、私は本屋さんの秘密を知ったんだと得意気で、母に「今日ね、さっきの本屋さんですごいものをみたんだよー」と言って「おしえてよー」と言われても秘密だよと言って喋らず、とっておきの秘密を噛みしめていました。
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子供の知らない世界、在庫の在処 はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2018年8月13日
旅行先にいって「せっかく旅行に来たのにそれする?!」と他人の行動に対してツッコミを入れたくなる事ってありませんか?友人は旅行に行った夜(その夜は神社でお祭りがあってそちらに行くつもりが)、どうしても歌いたくなったからカラオケに行こうと言い出したり。母に至っては温泉が混んでいて嫌だったから部屋の風呂にその温泉の名の入浴剤をいれて入った事があるという逸話を聞いた事があります。せっかくの旅行だからと気張り過ぎもよくないと思いますが、名物を適度に楽しんだって罰はあたりません。そんな私は、旅行の計画をたてる際はいい雰囲気の喫茶店を調べ、そこで二・三時間の読書タイムをとるのですが、人からは「せっかく旅行に来たのに?」と変人扱いされます。オシャレな喫茶店が多くある土地だとさほど驚かれはしないのですが、これは喫茶店めぐりが醍醐味なのではなく、その土地の空気を味わいながら本を読みたいだけなので例え喫茶店などない辺境の地でも、平地や砂浜に腰掛けての読書タイムは必ず確保します。同行した友人とは「じゃあ私はあそこの美術館に行くから○時に駅前で合流ね」といた具合にフリータイムとして、見知らぬ土地での一人の空間を楽しむ時間にしました。もちろん大人数やフリータイムは心細いという友人の場合は我儘言いませんが。観光づくしの非日常的な楽しみ方もいいですが、いつもの自分を織り交ぜてのんびり旅を味わう方が好みかもしれません。
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「せっかく旅行に来たのに!?」と言われても はコメントを受け付けていません