Posted by admin on 2019年5月2日
友人の息子と友人と私の三人で公園でおやつを食べながらベンチに座っていました。もうすぐ三歳になる息子君は最近昔話がお気に入りのようで、友人に「桃から赤ちゃんが出てくるお話して」「こんどは亀にのってく話して」と次から次におねだりしています、。友人は「むかしむかしあるとこに……」と話し始めました、感心した事に絵本など読み上げるのではなく、筋書きのある即興にのように、お話を進めていくのです。だからところどころ言葉がおかしかったり「えっと、あのねぇ」などの言葉が入るのも字でおこされていない読み聞かせの醍醐味かもしれません。今友人がしているお話は誰しも題名を知っている有名なものですが、じゃああなたが話してみてと言われても友人のようにはいかないと思います。それに久しぶりに耳にすると「そんなお話だったんだ」と再確認する節もあり、私まで楽しんで聞き入ってしまいました。子供は友人の顔をじっと見て真剣に頷いています、絵や映像のない物語にもかかわらず彼自身が物語を想起しているのなら大した想像力だなと思います。友人に、なぜこの読み聞かせのスタイルを始めたのか尋ねると「日本の昔話っていっぱいあるでしょ、それに一つのお話に対して絵本もいっぱいあるの。だからとりあえず私がこうやっていくつか分かりやすい言葉にして読み聞かせして、この子が気に入ったら、その物語の絵本を買ってあげようと思って始めたんだ。私ケチだから」と、笑う友人。子供の頃、電気を消して布団に入ったら「お母さん、お話して」と言って昔話を聞かせてもらっていた事を思い出しました。
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Posted by admin on 2019年4月20日
物語のサイズ感のトリックについて、改めて考えてみると面白い発見がたくさんあります。海も太陽も、紙一枚の上に描かれ、多くの人たちの生き様すら鞄にすっぽり入る、本という、サイズ感に編纂されているのです。私は今自分目線の等身大の現実を、誰かが仕掛けたものではない絶対無垢なノンフィクションとして捉えています。しかしもしかすると、これは私の知らない作者によって作られた演出の一部であり、私も単なる登場人物の内の一人(あるいはモブの内の一人かもしれませんが)に過ぎないという可能性だってある訳です。
とある芸術家が、誰しもが知っている有名な漫画を等身大に拡大し展示するちいう試みをした際の事を語っている記事を読みました。それによると、鑑賞者はいつも紙の上で動き回っているキャラクターたちが、自分たちと同じくらいまたはそれ以上の大きさになっている事に、驚き笑いときに恐怖の色を浮かべる人もいたそうです。さらに注目すべきは拝啓や吹き出しの大きさです。それらは通常キャラクターよりも大きく描かれている事が多く、等身大に拡大すると特にそれらの大きさに驚かされる人が多いようです。ここでこの芸術家が鑑賞法についての面白い発見について“自分よりも大きいものを全体像として捉えるため、人々は後ろに下がったり横に移動して、何とか見ようと工夫するんです。この無意識の運動は通常サイズの漫画を読んでいるだけでは成せない。自然と心身を使って鑑賞しているんです”と語っています。
このように等身大サイズに拡大する事によって身体全体が反応し、鑑賞に対しての革命が起きるのです。普段は視覚から得る情報だけに頼って読書をしていますが、身体を動かし能動的に読書をする事によって物語の世界を一層リアルに感じる事ができます。フィクションをあえてリアルな形に立ち上げ直す事によって新しい観賞論が生れる訳です。
たしかに私たちは本の中で太陽が爆発しようが起きようが人が死のうがそれは二次元上で起こった事象であり、心に訴えかけられ自身の中の何かが変わる事はもちろんありますが、では私たちを照らす太陽がこの本をきっかけに爆発するのかとと言ったら、しないんですよね。しない事が分かっているからこそ安心して爆発した太陽の欠片を閉じて鞄にしまい家に持ち帰って、愛する人を失った物語の隣に収納して「今夜の夜ご飯は何にしようか」と料理本を取り出し日常に戻る。いくつもの壮絶なフィクション物語が立ち並ぶ本棚、それを横目に淡々と日常を送るなんてそれ自体が奇妙で、やはり誰かが仕組んだ物語のように感じられます。
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Posted by admin on 2019年4月6日
カフェなどで柔かいソファの席と固い椅子の席、どちらも空いていたらどちらに座りますか?私はリラックスしたい時はソファ、読書や勉強に集中したい時は椅子を選びます。読書と言っても、雑誌や詩集など気張らずさらさら読めるものは柔らかさの上で、難解な本は堅くく支えられながら読みたいものです。席を選ぶ要素は座り心地だけでなく、日の差し具合とか混み具合も重要な要素ではありますが、やはり身体を直に支える部分にはこだわりたいものです。そんな話を友人とし「わかるわかる」と共感し合いながら向かった先はカフェ。私は食事を済ませてきてゆっくりしたいのでソファに座ろうかと思っていたのですが、彼女は食事がまだ済んでおらず、メープルシロップが惜しみなくかかった生クリームのせフレンチトーストを注文したのでテーブルチェアの席にしようかと提案しました。すると「さっきの話だと、リラックスしたいって言うのに何だか申し訳ないなぁ」と友人。「でも、さすがにそれはソファでは食べづらいんじゃない?」前のめりになって、シロップとクリームが垂れてこないように食べるには労力が必要に思います。そんなこんなで結局テーブルチェアに座って、友人は食事を、私はその向かいで雑誌に目を通しながら他愛もない話をして過ごしました。こだわりはあっても、何事も柔軟に楽しむべきですね。
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Posted by admin on 2019年3月22日
金曜日の夜、と言うとなんだかワクワクしてくるのは私だけでしょうか。金曜日を特別に感じるのは、義務教育時の月~金は学校(土曜日もあったりなかったりしますが)に行くという鉄の掟により擦り込まれたものではないかと分析しています。社会に出ると、必ずしも金曜日が“最後の日”に設定されるは事なくなりますが、九年間擦り込まれたリズムは確実に私の曜日カウント概念の形成要因として身に沁みついています。
特に予定がなくても、この街のどこかで「一週間お疲れさまでしたー!」と乾杯して明日の事など考えずに興じる人たちがいると思うと、それだけで夜空が明るく見えてくる気がするのです。そんな夜に、書店に行って少し遅くまでゆっくりと本を眺めていると落ち着きます。そんな時に好んで行くのは駅前にある大きめの書店で、窓があれば尚良く、静まった店内の空気を背に感じながら窓の外の忙しく行き交う人や眩い光を眺めるのです。何かが起こりそうな窓の外、その一方で金曜日の夜だからと言って店内に目だって変わった様子があった事はありません。そう言えば一度店先で泥酔している人をみた事がありますが、彼は書店のお客さんではないですからカウントしていませんが、やはりあの日は他の曜日の夜とはまた違った何かを感じます、それを平温を保ち続ける本に囲まれて観る、一週間に一度の愉しみです。
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Posted by admin on 2019年3月7日
長めの旅行から自宅に帰ってきて、ドアを開けた時の複雑な感覚が好きです。安心感や現実に戻ってきたという倦怠感・さぁ片付けしないと!という義務感……。行ってきた旅行によってこれはよくよく変わっていくものではありますが、部屋に入った時の感覚まで含めて旅行の一環だと思います。数日間締め切った部屋って独特の空気感がありますよね、それは病院で検査を行って数日後に結果を聞いた時の「自分の身体なのに知らない事ばかりだ!」という驚きに少し似ているかもしれません。旅行の前は当たり前のようにそこにあったものなのに、帰ってきたらそれらの異質性を感じる、ドアを開けた瞬間の一瞬だけ日常を客観的立場から捉える事ができるのです。夏ならば部屋は蒸し暑く、冬ならば底冷えしていて、馴染の家具や家電は一通り揃っておりかつて自分はそこに当たり前の様に住んでいたのだけど、空っぽな空間がそこには広がっている、なんだかロマンティックですね。
旅行に持っていった本を本棚に返す時の感覚も好きです。鞄に詰めて持っていったものと言えば、洋服や化粧品その他色々ありますが、何より先に本を棚に返す事から片付けを始めます。鞄の中でこの時を待っていた本は他の本とは違う空気を纏っていて、本棚に鎮座して私達の帰りを待っていた者たちは物珍しそうに彼が隙間に収まる様を見守っているような。旅先で本を読むのは、移動中や宿泊先でのんびりしている時など所謂スキマ時間が多いです。本を開いて一息ついて見上げた風景はしっかりと記憶に残っています、これは本を読んでいなければ目に留める事すらなかったかもしれない旅先の風景の一片。逆を言えば、物語の内容にも非日常によって彩られる新しいストーリーが添えられる可能性があるのです。そんな事を考えながらぴったりと収まった本を見ていると安心します、帰ってきたんだなと実感する瞬間です。
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Posted by admin on 2019年2月20日
近所の古本屋さんの店主は、いわゆる“頑固おやじ”と言った雰囲気です。太い筆で書かれた力強い「長時間の立ち読み厳禁」という張り紙が所々に張られた店内。私は始めて「立ち読み厳禁」という注意書きを見ましたもので、漫画やアニメの世界だけのものではなかったのですね。○○論・○○教本など難しそうな本ばかりの店内はいつも綺麗で埃ひとつありません。無駄な隙間なくきっちり陳列されている本、店奥の会計の机には胡坐をかいた店主が黙々と読書をしている、そんな厳格な雰囲気のある店です。さらに彼の風貌も絵に描いたようなもので、重そうな眼鏡に白髪のオールバックにしかめっ面な訳ですから、始め見た時は「怖そうなおじさんだなぁ」という印象、これは私だけでなく誰しもが抱くと思われます。しかしある日そんな店主の以外な姿を目にしたのです。小学生が下校してくる頃、交差点で「交通安全」の旗持ちを「勉強ごくろうさん」と言いながら子供たちに話しかけているではありませんか。驚きのあまりその交差点の方には用事はなかったのに、小学生にまぎれて私も横断歩道を渡ってしまいました。それからその店主と古本屋の事が気になってしまい、何度か足を運ぶようになりました。あの時の笑顔はどこへやら、鎮座する仏像のような表情で店にいるのは相変わらずなのですが、机の下に置かれた物入れに黄色い旗が差さっているのを発見してなんだか微笑ましい気持ちになりました。
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Posted by admin on 2019年2月8日
鼻濁音をご存知ですか?濁音の詩音を発声する時、鼻に音を抜くものを言います、簡単に言うと鼻から抜けるように発音するとの事ですが実際に耳にしてみないとイメージがわかないかもしれません。具体例を挙げると“私は絵画が好き”と言う文章の発音をカタカナでおこしてみると“ワタシワカイガガスキ”となりますよね。鼻濁音においてはカイガとガの間に発生します。“カイガガガ”と続けず“カイガンガ”というように小さな“ン”を挟みワンクッションおくように喋ると丁寧に聞こえると思いませんか?アナウンサーなどの声が重要な商売道具である職業の人々は、この技術を使用し聞き心地のよいアナウンスができるように努めるそうです。思い返してみればお坊さんはこんな喋り方をしている気がします、あの安心感や耳を話に傾けたくなる敬虔さはにはこんな技術が隠されていたのかもしれません。鼻濁音は東日本方言を中心にみられ、中国・四国・九州の方言には全く使用されない要素であると言われています。しかし年々話者は減り、現在の若者にはほとんど浸透しておらず消滅するのではないかと危ぶまれているのが現状です。
ではどういうこの技術を使うのかと言うと、意味が続いていれば鼻濁音、意味の切れ目の頭は濁音を使用します。例えば小学校は「ショーカ゜ッコー」高等学校は「コウトウガッコ―」と言った具合です。『小さい』という連体修飾語が『学校』にかかる『小学校』と、「『高等』・『学校』という二つの名詞が並んで意味を持つ『高等学校』とでは言葉のでき方が違うのです。例のように意味が続いているか、意味の切れ目かに準じて使い分けるのですが、会話の最中瞬時にこれらを判別し鼻から抜けるように発音するなんてとても難儀な事に感じます。小説や古典文学などでもこれらの表記を目にした事はないです、いちいち表記するものではないのでしょうか。小説などで地の文にいちいち「カ゜」なんて文字が挿入されていたら読みづらいかもしれませんが、丁寧な言葉遣いをする登場人物の台詞文への演出としては大きな効果をもつのではないかと思います。鼻濁音のような美しい日本語の文化が消滅してしまうおそれがあるなんて寂しい限りです、多くの人にこの存在が広まっていけばいいなと思います。
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Posted by admin on 2019年1月24日
手のこんだ主菜を作りつつ副菜も作りはじめないと、と思い同時進行で調理をすすめると、コンロがたりない!さらには電子レンジもあと十分も空かないし困った……なんて事態に陥る事がよくあります。料理は手際が大事とはよく言うもので、本当の料理上手は味だけでなく効率の良さも頭に入れて作業を進めていく事ができるのでしょう。料理に関しては同時作業は難しいですが、えぇもちろん本を読みながらテレビを観たりアイロンをかけたりはできませんが、本を読みながら、また別の本を読み進める事ならできます。ただし右手に本A左手に本B、交互に読んでいくという訳ではありません、本Aは昼に本Bは夜にといって読み方です。あ、それなら誰にでもできるものですね。
駅のホームのベンチで、片手持ちできるサイズに折った新聞を左手に持ち読みながら、右手には文庫本を持ってまたそちらも、交互に読んでいるおじいさんを見た事があります。なんて無謀な事をするんだろうと思いつつ、一つ空けて隣の隣の席に座るとおじいさんが新聞をぽとりと落としました。拾ってあげると恥ずかしそうに笑って「すまんすまん、いやぁいつ死ぬかわかんないからね、読めるだけよんでやろうと思って欲張っちゃったよ」なんて言います。「そんな事ないですよ!きっとおじいさんは長生きします!」なんて当てのない偽善的な言葉を無責任にかけるのは失礼なので、とりあえず笑ってその場は済ませました。面白いおじいさんですよね、あんなギャグをさらっと言えるセンスが羨ましいです。二冊読みするなんて、きっとものを読むのが好きな勉強好きな方なんでしょう。
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Posted by admin on 2019年1月13日
休みの日、美容師の知り合いに前髪を切ってもらいました。ピンでしっかりブロッキングし、いつも仕事で使用している鋏・櫛を使って切ってくれたおかげで均整のとれた綺麗な仕上がりになりました。こんなプロの技を施してもらったのだからお金を払いたいと言いましたが、「いいよいいよ友達割引だよ」と気前よく無料に……と言う訳にはさすがにいかないので彼女のお気に入りのカフェでご馳走させてもらう事にしました。しばらくカフェにて話していると、最近会っていないライターとして活躍している友人も誘おうと言う話になり彼女にメールを送りました。すると、長文にて、久しぶりに会いたいけれど、今日は取材の予定が入っていて会えない旨が書かれ、最後には「最近長い文量の多い仕事ばかりしているせいか文章が多くてごめんね。笑」と締められていました。例えば美容師や料理人のように成果が際立って目に現れる職業の友人にサービスしてもらう事は「お金を払わないと」と思うのに、ライターや小説家が書いた文章に対しては無料で享受する事を当たり前のように思う、この違いに少し違和感を感じます。ライターの友人からもらったメールに励ましてもらったり考えるきっかけをもらった事だってありました。かと言って、「このメール、一文字○円で買い取らせて頂きます」なんて事言うのも変ですし。「なにボーっとしてるの?」と、問われ目を上げると友人のケーキはもうすっかり食べ終わっていました。そんな取り留めのない事を考えてもしょうがないですね、なんでもお金に換算するのではなくて、一緒に過ごすかけがえのない時間や思い出を大切にするべきでした。
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Posted by admin on 2018年12月30日
車の中で本を読むと気分が悪くなる体質の人っていますよね。私も子供の頃、家族で旅行に行った際、移動時間がかかるからと言われたので、暇つぶしに持ち込んだ本を車内で読んでいたら、とてつもなく気持ち悪くなった事がありました。揺れやシートに染みついた独特のクルマ臭と、よくよく考えてみるとこんな狭い箱の中に家族がぎゅうぎゅうに詰め込まれている違和感から目の奥が微睡んでくる心地になりました。気持ち悪いと訴えると、母が念のためにと持ってきてくれていた酔い止めドロップを舐め、窓を開けて風にあたっていたらあの時の猛烈な眩暈が嘘のように晴れて酔いはなくなりました。しかし問題は帰宅後まで続きます。その時に読んでいた本を読もうとすると、あの時のクルマ臭が立ちこめてくる錯覚に襲われ、それまで全く平静だったにも関わらずまた微睡みが背後から近付いてくるような気がするようになったのです。そんな事もあってしばらくはその本は読めずにいましたが、車酔いの事などすっかり忘れた頃に読んでみると、あの時の感覚は嘘のように何事もなく読み進める事ができたのです。「そういえばこの本ってあの時の」と思い出しても何も起りません。車酔いは不思議なもので、自家用車はダメだけどバスなら平然と乗れる人や、私もそうでしたが本を読まなければ何も起こらない人など、どんな条件で酔いが起るかは人それぞれなんだそうです。とくに子供の頃は車酔いしやすいらしく、わりと神経質なタイプの子に多いんだとか。自分はかつて神経質だったのかもしれません、今となってはすっかり神経が鈍ったのかと言うくらい、いくら本を読んでも何も感じなくなったのですが。
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車酔いの記憶が染みついた本 はコメントを受け付けていません