Posted by admin on 2019年2月20日
近所の古本屋さんの店主は、いわゆる“頑固おやじ”と言った雰囲気です。太い筆で書かれた力強い「長時間の立ち読み厳禁」という張り紙が所々に張られた店内。私は始めて「立ち読み厳禁」という注意書きを見ましたもので、漫画やアニメの世界だけのものではなかったのですね。○○論・○○教本など難しそうな本ばかりの店内はいつも綺麗で埃ひとつありません。無駄な隙間なくきっちり陳列されている本、店奥の会計の机には胡坐をかいた店主が黙々と読書をしている、そんな厳格な雰囲気のある店です。さらに彼の風貌も絵に描いたようなもので、重そうな眼鏡に白髪のオールバックにしかめっ面な訳ですから、始め見た時は「怖そうなおじさんだなぁ」という印象、これは私だけでなく誰しもが抱くと思われます。しかしある日そんな店主の以外な姿を目にしたのです。小学生が下校してくる頃、交差点で「交通安全」の旗持ちを「勉強ごくろうさん」と言いながら子供たちに話しかけているではありませんか。驚きのあまりその交差点の方には用事はなかったのに、小学生にまぎれて私も横断歩道を渡ってしまいました。それからその店主と古本屋の事が気になってしまい、何度か足を運ぶようになりました。あの時の笑顔はどこへやら、鎮座する仏像のような表情で店にいるのは相変わらずなのですが、机の下に置かれた物入れに黄色い旗が差さっているのを発見してなんだか微笑ましい気持ちになりました。
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厳格な古本屋の店主と黄色い旗 はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2019年2月8日
鼻濁音をご存知ですか?濁音の詩音を発声する時、鼻に音を抜くものを言います、簡単に言うと鼻から抜けるように発音するとの事ですが実際に耳にしてみないとイメージがわかないかもしれません。具体例を挙げると“私は絵画が好き”と言う文章の発音をカタカナでおこしてみると“ワタシワカイガガスキ”となりますよね。鼻濁音においてはカイガとガの間に発生します。“カイガガガ”と続けず“カイガンガ”というように小さな“ン”を挟みワンクッションおくように喋ると丁寧に聞こえると思いませんか?アナウンサーなどの声が重要な商売道具である職業の人々は、この技術を使用し聞き心地のよいアナウンスができるように努めるそうです。思い返してみればお坊さんはこんな喋り方をしている気がします、あの安心感や耳を話に傾けたくなる敬虔さはにはこんな技術が隠されていたのかもしれません。鼻濁音は東日本方言を中心にみられ、中国・四国・九州の方言には全く使用されない要素であると言われています。しかし年々話者は減り、現在の若者にはほとんど浸透しておらず消滅するのではないかと危ぶまれているのが現状です。
ではどういうこの技術を使うのかと言うと、意味が続いていれば鼻濁音、意味の切れ目の頭は濁音を使用します。例えば小学校は「ショーカ゜ッコー」高等学校は「コウトウガッコ―」と言った具合です。『小さい』という連体修飾語が『学校』にかかる『小学校』と、「『高等』・『学校』という二つの名詞が並んで意味を持つ『高等学校』とでは言葉のでき方が違うのです。例のように意味が続いているか、意味の切れ目かに準じて使い分けるのですが、会話の最中瞬時にこれらを判別し鼻から抜けるように発音するなんてとても難儀な事に感じます。小説や古典文学などでもこれらの表記を目にした事はないです、いちいち表記するものではないのでしょうか。小説などで地の文にいちいち「カ゜」なんて文字が挿入されていたら読みづらいかもしれませんが、丁寧な言葉遣いをする登場人物の台詞文への演出としては大きな効果をもつのではないかと思います。鼻濁音のような美しい日本語の文化が消滅してしまうおそれがあるなんて寂しい限りです、多くの人にこの存在が広まっていけばいいなと思います。
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Posted by admin on 2019年1月24日
手のこんだ主菜を作りつつ副菜も作りはじめないと、と思い同時進行で調理をすすめると、コンロがたりない!さらには電子レンジもあと十分も空かないし困った……なんて事態に陥る事がよくあります。料理は手際が大事とはよく言うもので、本当の料理上手は味だけでなく効率の良さも頭に入れて作業を進めていく事ができるのでしょう。料理に関しては同時作業は難しいですが、えぇもちろん本を読みながらテレビを観たりアイロンをかけたりはできませんが、本を読みながら、また別の本を読み進める事ならできます。ただし右手に本A左手に本B、交互に読んでいくという訳ではありません、本Aは昼に本Bは夜にといって読み方です。あ、それなら誰にでもできるものですね。
駅のホームのベンチで、片手持ちできるサイズに折った新聞を左手に持ち読みながら、右手には文庫本を持ってまたそちらも、交互に読んでいるおじいさんを見た事があります。なんて無謀な事をするんだろうと思いつつ、一つ空けて隣の隣の席に座るとおじいさんが新聞をぽとりと落としました。拾ってあげると恥ずかしそうに笑って「すまんすまん、いやぁいつ死ぬかわかんないからね、読めるだけよんでやろうと思って欲張っちゃったよ」なんて言います。「そんな事ないですよ!きっとおじいさんは長生きします!」なんて当てのない偽善的な言葉を無責任にかけるのは失礼なので、とりあえず笑ってその場は済ませました。面白いおじいさんですよね、あんなギャグをさらっと言えるセンスが羨ましいです。二冊読みするなんて、きっとものを読むのが好きな勉強好きな方なんでしょう。
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同時進行の技術を持つ者 はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2019年1月13日
休みの日、美容師の知り合いに前髪を切ってもらいました。ピンでしっかりブロッキングし、いつも仕事で使用している鋏・櫛を使って切ってくれたおかげで均整のとれた綺麗な仕上がりになりました。こんなプロの技を施してもらったのだからお金を払いたいと言いましたが、「いいよいいよ友達割引だよ」と気前よく無料に……と言う訳にはさすがにいかないので彼女のお気に入りのカフェでご馳走させてもらう事にしました。しばらくカフェにて話していると、最近会っていないライターとして活躍している友人も誘おうと言う話になり彼女にメールを送りました。すると、長文にて、久しぶりに会いたいけれど、今日は取材の予定が入っていて会えない旨が書かれ、最後には「最近長い文量の多い仕事ばかりしているせいか文章が多くてごめんね。笑」と締められていました。例えば美容師や料理人のように成果が際立って目に現れる職業の友人にサービスしてもらう事は「お金を払わないと」と思うのに、ライターや小説家が書いた文章に対しては無料で享受する事を当たり前のように思う、この違いに少し違和感を感じます。ライターの友人からもらったメールに励ましてもらったり考えるきっかけをもらった事だってありました。かと言って、「このメール、一文字○円で買い取らせて頂きます」なんて事言うのも変ですし。「なにボーっとしてるの?」と、問われ目を上げると友人のケーキはもうすっかり食べ終わっていました。そんな取り留めのない事を考えてもしょうがないですね、なんでもお金に換算するのではなくて、一緒に過ごすかけがえのない時間や思い出を大切にするべきでした。
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大切なものはお金だけではない はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2018年12月30日
車の中で本を読むと気分が悪くなる体質の人っていますよね。私も子供の頃、家族で旅行に行った際、移動時間がかかるからと言われたので、暇つぶしに持ち込んだ本を車内で読んでいたら、とてつもなく気持ち悪くなった事がありました。揺れやシートに染みついた独特のクルマ臭と、よくよく考えてみるとこんな狭い箱の中に家族がぎゅうぎゅうに詰め込まれている違和感から目の奥が微睡んでくる心地になりました。気持ち悪いと訴えると、母が念のためにと持ってきてくれていた酔い止めドロップを舐め、窓を開けて風にあたっていたらあの時の猛烈な眩暈が嘘のように晴れて酔いはなくなりました。しかし問題は帰宅後まで続きます。その時に読んでいた本を読もうとすると、あの時のクルマ臭が立ちこめてくる錯覚に襲われ、それまで全く平静だったにも関わらずまた微睡みが背後から近付いてくるような気がするようになったのです。そんな事もあってしばらくはその本は読めずにいましたが、車酔いの事などすっかり忘れた頃に読んでみると、あの時の感覚は嘘のように何事もなく読み進める事ができたのです。「そういえばこの本ってあの時の」と思い出しても何も起りません。車酔いは不思議なもので、自家用車はダメだけどバスなら平然と乗れる人や、私もそうでしたが本を読まなければ何も起こらない人など、どんな条件で酔いが起るかは人それぞれなんだそうです。とくに子供の頃は車酔いしやすいらしく、わりと神経質なタイプの子に多いんだとか。自分はかつて神経質だったのかもしれません、今となってはすっかり神経が鈍ったのかと言うくらい、いくら本を読んでも何も感じなくなったのですが。
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車酔いの記憶が染みついた本 はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2018年12月15日
世界の図書館を調べてみたのですが驚きの連続でした。とくに欧米の図書館の内装は、ゴシック調やロマネスク調、はたまたここはルネサンス期に建築された宮殿の内部ではないかと思う程豪華絢爛なものが多くあります。建物はもちろんのこと、閲覧席の机や椅子、机に置かれたランプまでもが絵画の世界から飛び出してきたようなデザインです。高い天井に左右対象にそびえ立つ美しい柱、大聖堂のような天井画、本棚の脇に置いてある大きな彫刻など、こんな見応えのある空間にいたら読書や勉強どころではなくなってしまいそうです。うっとりしながら写真を見ていくと、そんな芸術まみれの空間で寛いで本を読んでいる人々、黙々と勉強する人が写っているんですね。彼らにとってはこれらの空間は日常の一部であり、なにも特別な光景ではない、私が近所の図書館に行くように、当たり前のように読書をする訳です。さらに感動した事に、近代建築や現代アートの風潮を取り入れた新しい風をまとった図書館だって世界にはたくさんあるという事です。一見するとUFOのようなテクノな外観の建物、天井近くまで壁一面に正方形で区切られた本棚にそってフロアがあったり、私の中の図書館像どころか建築の常識をも覆された気分です。世界だけでなく日本でも外観や内装にこだわった図書館が増えてきたようです。それも都心部ではなく地方に多いという事ですから、旅行がてら訪れてみたいものです。
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図書館の建築美 はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2018年12月3日
とある雑誌を読んでいると、色には人間の心理状態に作用する力があるという事を知りました。例えば赤やオレンジなどの暖色には興奮作用があり、気合いをいれたい時・元気を出したい時に背中を押してくれるんだそうです。一方で青・緑などの寒色には沈静作用があり、睡眠時・リラックスしたい時に眺めると心が落ち着くんだそうです。その本には「好きなカラーはありますか?あなたの身の回りに多いカラーは何ですか?」と投げかけ文句が、自分の身の周りを見渡してみると、なんとなく地味なものが多いなという印象。ベージュや紺に黒白。物を買う時「長く使いたい」とか「どんな場面でも使えそうな」とか日常における普遍性ばかりに注目してしまうのでこの通り気づいたら地味なデザインのものばかりが揃う訳です。しかしそんな地味な小物の中で唯一イロっぽさを放っているのがボルドーのブックカバーです。私にだってイロ気があるじゃない、なんてふざけつつ、家にあるブックカバーを思い返してみると黄緑にストライプ・花柄など服や鞄の地味さと裏腹に遊び心のあるデザインのものが多い事に気が付きました。たしかに身の回りのものを買う時はそれを使う場やそれを持って会う人の顔が思い浮かぶのですが、ブックカバーを買う際はそういう事は気にしないで純粋に「これお洒落だなぁ」とウキウキしながら選んでいる気がします。私にとって読書は自由に楽しむ事ができる癒しの場なんだなと改めて感じました。
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ブックカバーの色は楽しそう はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2018年11月21日
書店の子供向けコーナーの近くで立ち読みをしていた際、小学生くらいの女の子のグループが怖い話の本をキャーキャー言いながら読んでいる声が聞こえて、私が小学生の頃も、怖い話など流行っていた事を思い出しました。すると間もなくして、彼女たちの一人がただならぬ様子で「この話を聞いたら今日の夜、儀式をしないと霊が出るんだってー!どうしよう!」と悲劇めいた声を挙げました。周りの子たちも「キャー!」と言って手を繋ぎ合って本気で怖がっています。この話を聞いたら……つまり私も話を聞いてしまった内の一人です、もちろんそんなのフィクションですし幽霊なんて出ませんからそんなに心配しなくても。と言いつつ、彼女たちの必死の形相を横目で見ていると、なんとなくこちらまで不安な気持ちになってくるではありませんか。「大丈夫だよ!こんなの嘘だよ!」「でも、そんなに難しくないし、私は儀式しようと思う」女の子たちは口々に対処法について討論を始めました、好奇心と少しの不安の中、立ち読みの本に集中できず彼女たちの様子を横目で伺う事しかできません。あーでもないこーでもないと口論は終わる気配はありませんが、私は約束の時間があるのでもう書店を出なければなりません。信じている訳ではありませんが、儀式の内容を確認させてもらいたいなぁ……と怖気づきつつ、もういかなければなりません。結局その晩は、怖い話の事など忘れて早々に眠りに就いてしまいましたが、彼女たちがその後どういう結論を出したのか気になります。
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「この儀式をしないと霊が出る?!」と、騒ぐ女の子たち はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2018年11月6日
世界中で今この瞬間も多くの命が亡くなりつつ中で、私の想像もつかない死が至るところにあるのだと考えてみても、なんだか霧がかかったようにボンヤリとして実感する事ができません。きっと私は生死に関わる感覚が鈍っているのでしょう、恵まれている事に、紛争・獣・感染病などなど命を揺るがす危機は私の日常にはありません。もちろん明日地球が爆発するかもしれないし、次の瞬間には私が座る椅子ごと床を抜け地をマントルをも突き抜けマグマに落下するかもしれませんが、なんとなく、心のどこかで「そんな事起こるはずがない」と高をくくっている自分がいます。そんな私でも小説家・漫画家など、若くして亡くなった方のニュースを見聞きするとやけに死を身近に感じます。日常で触れる事の多い文学に従事している、同じ年代の人間の死を突如聞かされると鈍った感覚がピクピクっと動き始める気がするのです。何故そんな事を考えたのかと言うと、渡航注意と言われる国へ一人旅に出た友人から手紙が届いたのです。
「こちらでは道端に動物の死体や汚物が転がっており、たかが二三軒となりに行くのさえもまるで忍者のように神経を尖らせ忍び足で歩かないといけません。さらに金で買った水も食べ物も、目で見て鼻で嗅いで、舌の上に少しのせてみて害がないかを確認してからでないと食べる事ができません。そんな生活のなかで生死の感覚が冴えている今日この頃、やはり日本は平和だなと思います。しかし平和過ぎて生きるための感覚が鈍ってしまいますよね、せっかく人間として五感を持って生まれたのだからそれをフルに使ってみるのも悪くないのかなと思います」子供の笑い声が聞こえる昼下がりの公園でこの手紙を読んで、色々と思うところがありました。そこでこの平和の中で自分にとって生とか死とかの感覚が震える瞬間っていつだろうと考えた結果でした。生前の彼らの作品を鑑賞し、しかしこの作者はもういない、そう考えるとやはり私にとって一番命を身近に感じるのです。
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生死の感覚が冴える時 はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2018年10月25日
本を読んでいて、読みが分からない漢字を見つけた時、読み進めるのを中断して辞書をひく時と、「いや調べている場合じゃない!」と先を読みたい気持ちが勝って立ち止まる事ができない時があります。学生時代に英語の長文読解の際、分からない単語があっても深く考えず、それの品詞の種類だけ察知してなんとなく訳して文章を読み進めるべし、と教わりました。その技術が活きているのかもしれませんが、単語の意味が分からなくてもなんとなく要約して読み進める術を、読みたい衝動が先走る時は頭が勝手にそうするように動くのです。
しかしその教えには続きがあって、読み飛ばした単語は後にしっかり調べて頭に入れ、次回同じ単語が出てきた場合は理解できるようにしておく事。英文読解問題は勉強の一環で、試験に合格したい・テストでいい点を取りたいという目標の元行っていますが、読書に関しては野望や目標のために力を高めるものではないので調べるのをサボリがちです。しかし読めなかった事だけは覚えていたりするものなんですね、「あれ?この漢字、前も見たなぁ。その時もこうやって頭を抱えたなぁ」と。それに作家さんって単語や漢字の使い癖がありますから、自分の好きな作家さんが好んで使用する難読系のものは早めに調べておくにかぎるのです。
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読み飛ばしの技術 はコメントを受け付けていません