Posted by admin on 2017年9月20日
「文学女子風マニッシュ暗髪」「才色兼備の読書家美人」時折みかける本にまつわる美人像。知的でどこかアンニュイな雰囲気が漂っていて男女問わず魅力的にうつるのでしょう。漫画や小説で、明るく元気いっぱいな女性と対比軸で登場する、物静かで儚げな女性像。一人でいる時に窓辺で本を読んでいたり部屋には本がいっぱいあったり、ミステリアスだけどじつは優しくて一途、現代日本の典型的な文学少女のイメージと言ったところでしょうか。フィクションだからこそなせる完璧なまでの文学性をまとったキャラクター像、女性だけでなく男性も、彼らに惹かれるのは憧れもしくはお恥ずかしながら自己同一化してるのかもしれません。平安時代においては質の高い詩を詠む事ができれば、それだけで美人とされたらしいのです。一方でどんなに顔や佇まいが美しくても、詩がいまいちだと、今でいうモテない・イケてないと言われる事もあったのだとか。文芸に秀でた女性が美しいと感じるセンスは今もむかしも共通しているものです。
私個人としてはその人がどんな見た目・性格であろうと「本が好き」というだけで好感を持ちます。眩いほどお洒落で華やかな人が読書家だったら、その裏腹感に魅力を感じますし、いかにも本が好きそうな人が読書家だったら、外見とのギャップ云々考える間もなくさっそく本の話をしたいと思ってしまいます。そう、私はフィクションでもリアルでも、本好きの人が好きなのです。
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本好きな人はいとをかし、そして愛おしい はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2017年9月6日
長年聞き続けた曲、始めた歌詞を文字で追ってみると今まで思っていたものは聞き間違いだった事が判明した!なんて事ありませんか?最近私は、「日々」だと思っていた箇所が「意味」であったと知って驚きました。「~な意味が欲しい」だったのか、~な日々が欲しいかと思っていたのに……日々でも意味でも大きな違いは無さそうですが、やはり意味の方がしっくりきますね。このような間違いは音楽だけでなく、読書にも散見されます。さすがに内容の筋を読み間違える事はないですが、登場人物や地名を読みを間違えたまま終りまで読み進めてしまう事は度々あります。とくに昔の物語は常用外の漢字が使われたり、現代人の感覚とは離れた名前が付けられている事が多いのでイチロウだかカズロウだかカズアキだか曖昧なままである事が多く、その本について他の人と話した時に「え?!彼はカズアキラって言うの?」と驚かされた事だってあります。四国の地名に「祖谷」という場所があって、これはイヤと読むのですが、初見でイヤと読める人はほとんどいないと思うんです。物語でこの地名が登場した時に私は何の疑いも抱かずソヤと読み進めていました。同じ頃にこの物語を読み始めた友人と話していた時に、「主人公がソヤに引っ越した時に」と言ったらやれやれとした顔で「それはイヤって読むんだよ」と教えられました。「分からない、不安な読みの漢字を見つけたらすぐに辞書をひくべし」と眼鏡をクイっと上げながら話す友人、全くその通りですが、お話に惹きこまれてしまうと中断して辞書を開く気になれないんですよね。
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間違いはすぐに調べるべし はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2017年8月22日
箪笥の中を整理していると、小学生頃の思い出の品がまとめて収納してあるカラーボックスを見つけました。その中に日記帳を見つけて、恥ずかしながらも読んでいくと「図書館に本を返す日なのに、読み終わっていなくてどうしようと思った。図書館の先生におねがいしたらまた借りていいことになりました。よかったー!ドキドキしたー!」とありました。なんだか胸が痛いです。実は私、今本を延滞していて、延滞の手続きはしていないし返却期日から三日ほど過ぎているはずで、この日記の頃の返却期日を遵守する気持ちを忘れているのです。日記には続きがあって「またこの本がお家に来るなんて夢みたい!図書室にも本屋さんにも売っていない、みんな知らない本なんでーす!!」この頃はくにゅっと崩れた“カワイイ”字体と文末に「!」マークを使うのがクラスの女子の中で流行っていたのかもしれません、私も下手な文字と文章をどうにかして“カワイイ”に仕立て上げようと必死です。そんな嫌味ったらしい蒸し返しは置いておいて、今となってはこの本の事が全く思い出せないのです。これほどお気に入りのものだったというのに、記憶の片鱗にも残っていないなんて我ながら薄情だなと思わざるを得ません。でも今の私のなんらかの糧になっているのなら、自然と思い出す日まで思い出の中に滲ませておくのもいいかもしれません。とにもかくにも、すぐに今借りている本を返すか、延滞するかしに図書館に行かなくてはいけません。
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薄情な私だけど今も昔も本が好き はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2017年8月7日
友人の家に遊びに行って、話をしたりお菓子を食べたりして寛いでいました。彼女の部屋は六階にあって、さらにマンション自体が高い位置に建設されているため、一帯の景色が窓からよく見えます。話しが小休止したので、街中を一望できる窓の外をぼんやりと眺めていると「ねぇ、おもしろい話してあげようか」と友人が笑います。「私、実は三日前くらいから、泊めてるの……家に」と含み笑い、なんだか深い意味がありげな様子です。何を泊めてるのかどこにいるのか、聞いても教えてくれません。「さぁあ?」と言うだけできっと友人は私の事をからかっていると察し、私もそのおふざけに便乗する事にしました。
泊めているものの特徴は?と聞くと「物知りで、落ち着いていて静かで、青が似合う、超タイプな感じ」という回答。犬や猫か、あるいはセロリの葉っぱを切って水に浸している類の事かと思ったら、どうやらそんな簡単なお話ではないようです。何も言わず紅茶をすする友人、おふざけを忘れて「それって……?!」と真顔で聞き返してしまいました。友人は口に手をあてて、コクコクっと頷き「図書館で出会ったの」と言うのでこれはただ事ではありません。図書館で出会った、物知りで落ち着いて静かで青の似合う男性が泊まっているのだと思って、私はなんてお邪魔者だろうと、混乱する頭でひねり出した結論によって早く友人宅から退散しなくてはと焦るあせる。「じゃ、じゃあ、その私はこれで」バタバタと帰る準備をしていると、友人がもう我慢できないといった様子で大笑いし隣の部屋に小走りで向かいました。友人と図書館で出会った男性が来る……!心臓がはち切れる思いでいると、部屋から出てきた友人の手には青い表紙の本が。「ごめんね、変な言い方して。泊めてるっていうか、借りてきたの、この青い本」茶目っ気たっぷりにごめんと言う友人。肩の力がしわしわしわ~っと音をたてて抜けていくような心地に襲われ、もうなにがなんだか、とりあえず笑うしかありません。
「窓の外をぼんやり見ていて、なんだかつまらなそうに見えたから、楽しませてあげようと思ったんだ」と、自由奔放で人懐っこい友人らしいイタズラです。それにしても、本を借りつという言い方より、図書館から来た本を泊めていると咄嗟に思いつく友人のセンスには頭が上がりません。
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お泊りしているのは誰だ! はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2017年7月24日
何年か前に購入したものの、内容が難しく頭に入ってこなかった本があります。なぜその本を買ったのかというと、表紙がお洒落だと思った、ただそれだけの理由でした。そして最近、その本が現代アートを語る上で欠かす事ができない名著であると知りました。どうりで表紙がお洒落で、勉強不足の私には内容が難しいと感じられたのも頷けます。国内美術について勉強していると、この本の名前が色々な場面でとり出たされており、あの時「なんだこの本難しいな」と言って本棚の隅に追いやって、数年分の埃が被った状態にしている事が恥ずかしく思えてきました。もう一度勉強し直そうと思い本棚を探しますが、見当たらない、書庫まで探しても本がないのです。頭をひねってどうしたものかと思い出してみると、友人に貸したまま返ってきていない事が判明しました。貸した友人に聞いてみると「返そうとしたら、いいよあげるって言ってたけど、返した方がいい?」との事。そう言えば、当時私は別の本に夢中になっており友人があの本をとくに気に入っていたので、いいよあげるなんて言っていたのです。なんとか笑って誤魔化し、返してなんて言えませんから友人に譲ったままにしておく事しました。いやはやそれにしても当時の私、いや今の今まですっかり忘れていたなんて酷いものです。もう一度あの本を買うべきか、いや、もっと勉強して、買うべきかどうか迷う暇なんてない程本当に必要になったら買う事にします。
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蔑ろにしていた本の正体と行方 はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2017年7月9日
早く目が覚めた朝、いつも起きる時間まで二時間もある…。二度寝をしようかでも起きられなかったらどうしようと言うか目が覚めていて二度寝はできそうになくて、明朝の静けさをしんしんと感じる。たまにはそんな朝もあります、むしろいつもいつも起床時間まで睡眠状態を保ってくれていた脳に感謝しないといけないのかもしれません、脳だってたまにはいつもの課題を放棄したくなるでしょうし。早く起きた朝は何をしますか?同居人がいる人は音が鳴るような派手な事はできないですし、天気が悪ければふらっとお散歩に行く事も難しいでしょう。そんな朝、私は紅茶片手にぼんやりと本を眺めます、背表紙を視線の流れのままに眺めて時々手に取りなんとなく中身をめくってまた戻しての繰り返し。紅茶が身体に沁みてきたらそっとカーテンを開いてみて、窓の外の澄んだ空気を味わい朝を満喫します。せっかく目が覚めているのだから身を入れて読書をしてもいいのかもしれませんが、いつもこの時間は寝ているのに、私起きてる、という特別感をゆったりと味わいたいだけなんです。もちろん目も脳もすっかり慣れてきたら集中して読書している自分がいるのですが。
にいつも通りの時間に目覚まし時計が鳴り響きます。それがとても大きな音である事に驚き「私はいつもあんな轟音で脳を叩き起こしているのか」と不健康に感じて、音量を下げた次の日の朝、音量が下がったせいか五回目のスヌーズでやっと目を覚ますなんて事、あるんですね、それで先日遅刻しかけましたから。
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早く起きた朝は はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2017年6月24日
先日自転車で坂を上っていたら、とてもつらく感じたので、まさかと思い確認してみると後輪の空気が抜けていたんです。その日はよりにもよってお醤油や食用油のような重いものを買った帰り、しかも友人に貸す予定で鞄に入れたハードカバーで厚さのある本も持っていて、苦行のような心持ちで自転車を押して上りました。坂の上に着いた時の達成感はひとしおではありません。運動部風の学生が下からランニングで登ってくるのが見えて、意図せざる形で彼らのようにこの坂でトレーニングをしていた事が嬉しく思えて「ファイト―!」なんて声をかけてしまいそうになりました。
頂上でのんびりしていると、本を貸す予定の友人からメッセージが届いていて「今どこ?私は着いてるよ」なんと、約束の時間はとうに過ぎているではありませんか。すぐに坂を下りて待ち合わせ場所に向かい、友人に遅刻してしまった理由を話すと笑いながら許してくれたので一安心、むしろ後輪がすかすかのタイヤでわざわざ遠回りをして本を届けてくれてごめんと謝られてしまいました。いつもならこんな状態であれば遠回りをせずに家に帰るのでしょうが、坂をのぼりきったという達成感で満たされていたからか、待ち合わせ場所まであっという間に着いて全く苦に思わず五キロ程離れたここまで来たのです。友人に本を渡していざ一人になると、なんだか疲れがどっときて、もう荷物も自転車も放り投げて電車で帰ろうかと投げやりでいたん時。聞き覚えのある掛け声が聞こえてきて顔を上げると、なんと、先ほどランニングしていた学生たちが目の前を通り過ぎていったではありませんか。驚く私の前をあっという間に過ぎ、学生たちは彼方へ走っていったのです。いやはや怖れいりました、どこから走ってきたのか分かりませんが、坂からここまで、そしてこの先もずっと走っている彼らには頭が上がりません。意図せざる形で元気をもらいましたから、私も少ししたら、自分の足でしっかりと歩いていきます。
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意図せざる形でが立て続け はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2017年6月11日
やらないといけない事があるのですが、どうしようもなく眠たくてしょうがなくて作業が思うように進みません。もはや眠気を通り越して眩暈すらしてきたような、なんとか瞼は開いていてももはや脳が開きませんからぼやぼやとしてしまいます。気分転換に歯磨きをしても珈琲をブラックで飲んでも音楽をかけても効果なし、一向に消えない重苦しい眠気。身心のリズムやバランスは自分でも把握しきれていない事が多くて、この猛烈な眠気は二日前にした夜更かしからの、翌日「あれ?意外と元気だし天気も良いから歩いてみるか」という二日にわたる無理がたたっての結果で全く自業自得であります。
とある作家さんがエッセイで「二日ぐらい寝なかった時や、熱がある時の方がペンが進む」なんて言っていましたが、そんな事ってあるのでしょうか。私が凡人だからか、眠い時や体調が悪い時、まさに今、小説なんて書ける気が全くしません。しかし不調時に瞳孔開いてゴリゴリ書き殴る作家の姿ってよく物語に出てきますよね、彼らは不健康そうで常に目の下にくまを携えていて欲しい、という大衆の期待に応えるべくエッセイの中に典型的作家像が仕掛けられていたのではないでしょうか。そう考えると、エッセイではなく作家さんの物語の一部を読まされていた気がしてなりません。そんな私はそろそろ限界、今日はもう寝るべし、課題は体を休ませて万全になってからやればいい。だって私は凡人、健康こそが資本なのですから。
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不眠・不健康で仕事をする人たち はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2017年5月29日
いつものカフェに行って読書をしていると、何かが違うと感じました。しかし内装も珈琲の味も、窓から見える爽やかな風景もいつもと変わりありません。この違和感ははどこからきているのだろう、ふと目を瞑ってみると、BGMがいつもと違うテイストの曲に変っているのです。普段は優しいピアノソロが流れているのに、今日は少し情熱的サンバ色の濃いボサノバなんです。音楽一つでこれだけ雰囲気が変わったと感じるものかと驚きました。何の気なしに耳にしていたピアノソロがいかにこのカフェに馴染んでいたのか思い知らされます。店員さんに「今日はBGMがいつもと違いますね」と話しかけると「よく気づいて下さいましたね嬉しいです」と喜んで頂きました。変えてから三日が経ったのですが、とくに変化は指摘されなかったようで(気づいているけどあえて何も言わないだけかもしれないけど)。些細な変化に気づいてくれるお客さんがいると、この空間を丁寧に味わってくれているんだと嬉しくなると言ってもらえて、私まで嬉しくなりました。
軽快でいて熱っぽく奏でられるサンバ調のボサノバをバックに読書というのもいいものです。先日訪れた時も同じ本を読んでいたのですが、その続きを読んでいるのに、違う物語の世界に誘われているような気分です。
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BGMが違うだけで はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2017年5月14日
書籍のバーコードは何故二段に分かれているのか、ふと疑問に思い調べてみると、上段下段通して各本の情報を意味しているそうです。まず上段、これは国際コードと呼ばれるもの。これが本である事、さらに何語で書かれているのか・どこの出版社から発行された本かを表しており、「978」が本である事を示しているそうです。なんだか978という数字の羅列、暗号みたいで胸がときめきますね。本を表しているなんて、こんどロッカーを使う機会があったらわざわざ978の番号のものを利用してみようかな。そして下段の国内コードが、税別価格である事・販売対象(一般・教養・専門など)・発行形態(文庫・新書など)を表しています。さらにこのこれの面白いところは本の定価が数字の羅列の中に組み込まれている事だと思います。最後の一文字より左の桁に注目すると、例えば12005と記載されている場合は1200円が定価なんだそうです。家にある本を一通りチェックすると確かに定価が組み込まれていて驚きました。ちなみに最後の数字はチェック数字というもので、下段の数字を足したり引いたりしてまさに暗号的な計算式に則り算出された数字で、レジが読み取る際の最終チェック項目として存在しているんだそうです。
普段意識して見る機会のないバーコードですが、調べてみると興味深いものです。
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書籍のバーコードの意味を調べてみる はコメントを受け付けていません