Posted by admin on 2017年10月30日
楽しい事をしていると時間が過ぎるのはあっと言う間で、嫌々何かをしている時は何度時計を確認しても一向に針が進んでいない気がする不思議。自分がもともと知識や興味を持っている本はサクサク読み進める事ができますが、知識どころか興味もない本を読んでいる時の重苦しい瞼と脳みその動きの鈍さと言ったら。興味関心は人間の原動力であると言うのならば、何に対しても意欲をもって取り組む姿勢をもつ人はモーターの回転が軽快で活力のあるものなのでしょう。好きな本はすいすい読めて、読み終わってももう一回何度でも読みたくなるのに、課題で読みなさいと言われた興味の持ちようがない本は一行前の文章すら忘れてしまいそうになります。どんな分野・系統の本でも意欲的に読み進める事ができればいいのですが。日常生活において「気が向かないのにやらなければいけない事」が多く待ち構えているのですから、大好きな読書くらいは原動力モーターを自由に動かす事ができればと思います。そんな考えでいるせいか、本棚は好きな作家さん・分野の本が多く並んでいるわがままなつくりになっています。そう、今まさに私は気が向かない課題に取り組んでいる最中、原動力モーターが錆び付きカナ切り声を上げています。はやくあの本を読みたいと逃避してばかりです。
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Posted by admin on 2017年10月18日
少し曇りがちな日の下で本を開くと、紙の白さが光を帯びて際立ち、いつもの読んでいる本とは思えないほどの透明感を感じる事があります。晴の日もたしかに紙は白く映えるのですが、眩しく感じる事に目が慣れているので紙の眩さに気づく事は少なくて、目が光に慣れていない曇りの日こそそれを実感するチャンスだと思います。
晴れよりの曇りよりも、雨よりの曇りの方がいつ雨が降り出すがハラハラできますよね。草木に交じった微細な雨のにおいを逃さないように嗅覚を研ぎ澄ませたり、湿気が上昇していないか肌の水分量を察知しようと息をすませてみたり。大変便利になった現代社会の日常において、自然と共鳴する感覚を使う機会はめっきり減りましたが「降りだしそう……」という予感に対する感覚はいまだ健在という人は多いのではないでしょうか。いつ厚い雲から雨水が一滴垂れてくるかこないかの天気の元で、読書をするのが好きです。目も鼻も肌も、脳だっていつもより冴えていて読書の時間が一層深みをもつものになると思うのです。子供の頃は雲行きの怪しい天気の時にのんびりと公園のベンチでのんびりと読書する人を見て「変な人だなぁ、雨が降ったらどうするんだろ」と思っていました。今思えば、あの人たちは冴えわたる感覚の解放を楽しんでいたのかもしれません。
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雨よりの曇りの中での読書 はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2017年10月5日
いつもは通らない道を歩いていると、商店街の一角に薬屋さんと空き家に挟まれた○○古書店と書いう看板を掲げたこじんまりとした古本屋さんを見つけました。一階は古本屋で二階は住宅スペースなのかでしょうか、二階のベランダからは布団が干されています。
入口の扉には「一緒に働いてくれる人募集中 猫と本が好きな人大歓迎 時給は要相談」と手書きで書かれた貼り紙があります。募集要項に猫好きとあるなんて面白いなと思い、店内を覗いてみると中はしっかり整頓されており、高い本棚にはぎっしり本が並べられていますが人の気配は全くありません。きりぼりしているのはどんな人だろうかと気になり、店に入って本を眺める事にしました。しかし十分ほど時間が経っても人が現れる気配は一向にありません、今日のところは帰ろうかと思った矢先、奥から物音が聞こえてきました。振り返ると、そこにいたのはもっさりと太った白い猫。大きな体のわりに歩く様はしなやかで尻尾をピンとたて、私の方など見向きもせずにレジのある台の上に飛び乗り毛づくろいを始めました。しんと静まり返った空間に舞う白い絨毛に惑わされているような、少し不思議な気持ちで手に取った本を読みます。それにしても誰も来ないのです、猫が出てきた入口からは相変わらず何の気配もなく店の前の道すら誰も通らない、この世界が私と彼だけになってしまったような気さえします。温かい日差しと穏やかな本屋、眠そうな猫、なんてのんびりとした景色だろうかと思うのですが、その時私は実は未知との遭遇にゾクゾクしていました。猫好き・本好きといえば私の事、振り返って白い背中に手を触れようと近づいた時、のれんをかき分けて人の好さそうなおじいさんが出てきました。「いいお天気ですねぇ」ゆっくりと椅子にこしかけながら話すおじいさんを見ていると、先ほどまで何故鳥肌が立っていたのかますます分からなくなる気がします。
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古本屋と白猫と昼下がりと鳥肌 はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2017年9月20日
「文学女子風マニッシュ暗髪」「才色兼備の読書家美人」時折みかける本にまつわる美人像。知的でどこかアンニュイな雰囲気が漂っていて男女問わず魅力的にうつるのでしょう。漫画や小説で、明るく元気いっぱいな女性と対比軸で登場する、物静かで儚げな女性像。一人でいる時に窓辺で本を読んでいたり部屋には本がいっぱいあったり、ミステリアスだけどじつは優しくて一途、現代日本の典型的な文学少女のイメージと言ったところでしょうか。フィクションだからこそなせる完璧なまでの文学性をまとったキャラクター像、女性だけでなく男性も、彼らに惹かれるのは憧れもしくはお恥ずかしながら自己同一化してるのかもしれません。平安時代においては質の高い詩を詠む事ができれば、それだけで美人とされたらしいのです。一方でどんなに顔や佇まいが美しくても、詩がいまいちだと、今でいうモテない・イケてないと言われる事もあったのだとか。文芸に秀でた女性が美しいと感じるセンスは今もむかしも共通しているものです。
私個人としてはその人がどんな見た目・性格であろうと「本が好き」というだけで好感を持ちます。眩いほどお洒落で華やかな人が読書家だったら、その裏腹感に魅力を感じますし、いかにも本が好きそうな人が読書家だったら、外見とのギャップ云々考える間もなくさっそく本の話をしたいと思ってしまいます。そう、私はフィクションでもリアルでも、本好きの人が好きなのです。
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本好きな人はいとをかし、そして愛おしい はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2017年9月6日
長年聞き続けた曲、始めた歌詞を文字で追ってみると今まで思っていたものは聞き間違いだった事が判明した!なんて事ありませんか?最近私は、「日々」だと思っていた箇所が「意味」であったと知って驚きました。「~な意味が欲しい」だったのか、~な日々が欲しいかと思っていたのに……日々でも意味でも大きな違いは無さそうですが、やはり意味の方がしっくりきますね。このような間違いは音楽だけでなく、読書にも散見されます。さすがに内容の筋を読み間違える事はないですが、登場人物や地名を読みを間違えたまま終りまで読み進めてしまう事は度々あります。とくに昔の物語は常用外の漢字が使われたり、現代人の感覚とは離れた名前が付けられている事が多いのでイチロウだかカズロウだかカズアキだか曖昧なままである事が多く、その本について他の人と話した時に「え?!彼はカズアキラって言うの?」と驚かされた事だってあります。四国の地名に「祖谷」という場所があって、これはイヤと読むのですが、初見でイヤと読める人はほとんどいないと思うんです。物語でこの地名が登場した時に私は何の疑いも抱かずソヤと読み進めていました。同じ頃にこの物語を読み始めた友人と話していた時に、「主人公がソヤに引っ越した時に」と言ったらやれやれとした顔で「それはイヤって読むんだよ」と教えられました。「分からない、不安な読みの漢字を見つけたらすぐに辞書をひくべし」と眼鏡をクイっと上げながら話す友人、全くその通りですが、お話に惹きこまれてしまうと中断して辞書を開く気になれないんですよね。
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間違いはすぐに調べるべし はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2017年8月22日
箪笥の中を整理していると、小学生頃の思い出の品がまとめて収納してあるカラーボックスを見つけました。その中に日記帳を見つけて、恥ずかしながらも読んでいくと「図書館に本を返す日なのに、読み終わっていなくてどうしようと思った。図書館の先生におねがいしたらまた借りていいことになりました。よかったー!ドキドキしたー!」とありました。なんだか胸が痛いです。実は私、今本を延滞していて、延滞の手続きはしていないし返却期日から三日ほど過ぎているはずで、この日記の頃の返却期日を遵守する気持ちを忘れているのです。日記には続きがあって「またこの本がお家に来るなんて夢みたい!図書室にも本屋さんにも売っていない、みんな知らない本なんでーす!!」この頃はくにゅっと崩れた“カワイイ”字体と文末に「!」マークを使うのがクラスの女子の中で流行っていたのかもしれません、私も下手な文字と文章をどうにかして“カワイイ”に仕立て上げようと必死です。そんな嫌味ったらしい蒸し返しは置いておいて、今となってはこの本の事が全く思い出せないのです。これほどお気に入りのものだったというのに、記憶の片鱗にも残っていないなんて我ながら薄情だなと思わざるを得ません。でも今の私のなんらかの糧になっているのなら、自然と思い出す日まで思い出の中に滲ませておくのもいいかもしれません。とにもかくにも、すぐに今借りている本を返すか、延滞するかしに図書館に行かなくてはいけません。
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薄情な私だけど今も昔も本が好き はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2017年8月7日
友人の家に遊びに行って、話をしたりお菓子を食べたりして寛いでいました。彼女の部屋は六階にあって、さらにマンション自体が高い位置に建設されているため、一帯の景色が窓からよく見えます。話しが小休止したので、街中を一望できる窓の外をぼんやりと眺めていると「ねぇ、おもしろい話してあげようか」と友人が笑います。「私、実は三日前くらいから、泊めてるの……家に」と含み笑い、なんだか深い意味がありげな様子です。何を泊めてるのかどこにいるのか、聞いても教えてくれません。「さぁあ?」と言うだけできっと友人は私の事をからかっていると察し、私もそのおふざけに便乗する事にしました。
泊めているものの特徴は?と聞くと「物知りで、落ち着いていて静かで、青が似合う、超タイプな感じ」という回答。犬や猫か、あるいはセロリの葉っぱを切って水に浸している類の事かと思ったら、どうやらそんな簡単なお話ではないようです。何も言わず紅茶をすする友人、おふざけを忘れて「それって……?!」と真顔で聞き返してしまいました。友人は口に手をあてて、コクコクっと頷き「図書館で出会ったの」と言うのでこれはただ事ではありません。図書館で出会った、物知りで落ち着いて静かで青の似合う男性が泊まっているのだと思って、私はなんてお邪魔者だろうと、混乱する頭でひねり出した結論によって早く友人宅から退散しなくてはと焦るあせる。「じゃ、じゃあ、その私はこれで」バタバタと帰る準備をしていると、友人がもう我慢できないといった様子で大笑いし隣の部屋に小走りで向かいました。友人と図書館で出会った男性が来る……!心臓がはち切れる思いでいると、部屋から出てきた友人の手には青い表紙の本が。「ごめんね、変な言い方して。泊めてるっていうか、借りてきたの、この青い本」茶目っ気たっぷりにごめんと言う友人。肩の力がしわしわしわ~っと音をたてて抜けていくような心地に襲われ、もうなにがなんだか、とりあえず笑うしかありません。
「窓の外をぼんやり見ていて、なんだかつまらなそうに見えたから、楽しませてあげようと思ったんだ」と、自由奔放で人懐っこい友人らしいイタズラです。それにしても、本を借りつという言い方より、図書館から来た本を泊めていると咄嗟に思いつく友人のセンスには頭が上がりません。
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お泊りしているのは誰だ! はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2017年7月24日
何年か前に購入したものの、内容が難しく頭に入ってこなかった本があります。なぜその本を買ったのかというと、表紙がお洒落だと思った、ただそれだけの理由でした。そして最近、その本が現代アートを語る上で欠かす事ができない名著であると知りました。どうりで表紙がお洒落で、勉強不足の私には内容が難しいと感じられたのも頷けます。国内美術について勉強していると、この本の名前が色々な場面でとり出たされており、あの時「なんだこの本難しいな」と言って本棚の隅に追いやって、数年分の埃が被った状態にしている事が恥ずかしく思えてきました。もう一度勉強し直そうと思い本棚を探しますが、見当たらない、書庫まで探しても本がないのです。頭をひねってどうしたものかと思い出してみると、友人に貸したまま返ってきていない事が判明しました。貸した友人に聞いてみると「返そうとしたら、いいよあげるって言ってたけど、返した方がいい?」との事。そう言えば、当時私は別の本に夢中になっており友人があの本をとくに気に入っていたので、いいよあげるなんて言っていたのです。なんとか笑って誤魔化し、返してなんて言えませんから友人に譲ったままにしておく事しました。いやはやそれにしても当時の私、いや今の今まですっかり忘れていたなんて酷いものです。もう一度あの本を買うべきか、いや、もっと勉強して、買うべきかどうか迷う暇なんてない程本当に必要になったら買う事にします。
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蔑ろにしていた本の正体と行方 はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2017年7月9日
早く目が覚めた朝、いつも起きる時間まで二時間もある…。二度寝をしようかでも起きられなかったらどうしようと言うか目が覚めていて二度寝はできそうになくて、明朝の静けさをしんしんと感じる。たまにはそんな朝もあります、むしろいつもいつも起床時間まで睡眠状態を保ってくれていた脳に感謝しないといけないのかもしれません、脳だってたまにはいつもの課題を放棄したくなるでしょうし。早く起きた朝は何をしますか?同居人がいる人は音が鳴るような派手な事はできないですし、天気が悪ければふらっとお散歩に行く事も難しいでしょう。そんな朝、私は紅茶片手にぼんやりと本を眺めます、背表紙を視線の流れのままに眺めて時々手に取りなんとなく中身をめくってまた戻しての繰り返し。紅茶が身体に沁みてきたらそっとカーテンを開いてみて、窓の外の澄んだ空気を味わい朝を満喫します。せっかく目が覚めているのだから身を入れて読書をしてもいいのかもしれませんが、いつもこの時間は寝ているのに、私起きてる、という特別感をゆったりと味わいたいだけなんです。もちろん目も脳もすっかり慣れてきたら集中して読書している自分がいるのですが。
にいつも通りの時間に目覚まし時計が鳴り響きます。それがとても大きな音である事に驚き「私はいつもあんな轟音で脳を叩き起こしているのか」と不健康に感じて、音量を下げた次の日の朝、音量が下がったせいか五回目のスヌーズでやっと目を覚ますなんて事、あるんですね、それで先日遅刻しかけましたから。
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早く起きた朝は はコメントを受け付けていません
Posted by admin on 2017年6月24日
先日自転車で坂を上っていたら、とてもつらく感じたので、まさかと思い確認してみると後輪の空気が抜けていたんです。その日はよりにもよってお醤油や食用油のような重いものを買った帰り、しかも友人に貸す予定で鞄に入れたハードカバーで厚さのある本も持っていて、苦行のような心持ちで自転車を押して上りました。坂の上に着いた時の達成感はひとしおではありません。運動部風の学生が下からランニングで登ってくるのが見えて、意図せざる形で彼らのようにこの坂でトレーニングをしていた事が嬉しく思えて「ファイト―!」なんて声をかけてしまいそうになりました。
頂上でのんびりしていると、本を貸す予定の友人からメッセージが届いていて「今どこ?私は着いてるよ」なんと、約束の時間はとうに過ぎているではありませんか。すぐに坂を下りて待ち合わせ場所に向かい、友人に遅刻してしまった理由を話すと笑いながら許してくれたので一安心、むしろ後輪がすかすかのタイヤでわざわざ遠回りをして本を届けてくれてごめんと謝られてしまいました。いつもならこんな状態であれば遠回りをせずに家に帰るのでしょうが、坂をのぼりきったという達成感で満たされていたからか、待ち合わせ場所まであっという間に着いて全く苦に思わず五キロ程離れたここまで来たのです。友人に本を渡していざ一人になると、なんだか疲れがどっときて、もう荷物も自転車も放り投げて電車で帰ろうかと投げやりでいたん時。聞き覚えのある掛け声が聞こえてきて顔を上げると、なんと、先ほどランニングしていた学生たちが目の前を通り過ぎていったではありませんか。驚く私の前をあっという間に過ぎ、学生たちは彼方へ走っていったのです。いやはや怖れいりました、どこから走ってきたのか分かりませんが、坂からここまで、そしてこの先もずっと走っている彼らには頭が上がりません。意図せざる形で元気をもらいましたから、私も少ししたら、自分の足でしっかりと歩いていきます。
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意図せざる形でが立て続け はコメントを受け付けていません