箱の中のあなた
Posted by admin on 2024年10月31日SNSで青空文庫で読むことができる作品から抜粋した文章を投稿するアカウントをたまたま見つけ、その中で気になったフレーズがあったのでそのまま読みに行きました。
「ね? 殺しちゃって、ごめんなさい? でも我慢してね。私は、生きている人がこわいの。」という台詞がどんな場面で呟かれるものか気になったんです。
その作品は山川方夫著の「箱の中のあなた」で、上記のセリフを呟いた主人公は観光地に住んでいる30代の女性。
とても奥手で、男性の観光客に声を掛けられただけで首筋まで赤くなり、呼吸さえ詰まってその唇さえ見ることが出来ない彼女は、ぎこちないながらも渡されたカメラを抱えて、ファインダーに彼を「捉え」ます。
ここまでは何の違和感もなく読めますが、ここから少しの不穏の影が現れます。
ファインダーに収めた彼にうっとりする主人公はこの瞬間「はじめて彼を所有することができていた」と感じているのです。
今ここで初めて会ったはずの観光客の男性に、まるで長年恋をしていたかのような反応を示し、催促されるまでシャッターを切ることはありません。
この時彼女が絶望のような決意とは、シャッターを下ろしてその時が終わってしまうのではないと知るのはもう少し後のこと。
主人公はこんなところではなくもっと美しい景色があるのだと、男性を人気のない険しい道へと誘い込んでいきます。
さて、ここからです。道中男性に襲われることは彼女の予想外だったのかもしれませんが、しかし、結果は彼女の思う通りになったと言えるでしょう。
人目につかぬ場所で彼女は手際よく証拠を隠滅し、撲殺した男性の遺体を崖から転がり落としたのです。
カメラだけ手元に残した彼女は、先ほどとった男性の写真を現像し、あらかじめ用意していたフレームに飾ります。
そこで冒頭のセリフです。それに続けて彼女は隠していた様々な男性たちの写真――しかも黒いリボンがかけられた――を幸福そうに眺めたと。
内気で臆病な女が実は殺人鬼だった――よくありそうな展開ではありますが、しっとりとした質感をもった描写が文字にも拘らず写真のようにこの物語の輪郭を彩っているなと感じたものです。
青空文庫で読める作品なので、気になった方はぜひ調べて読んでみてほしいですね。